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下山富男

下山富男

下山富男

下山富男
Hononegah High School
Rockton, Illinois

AFSつれづれ・・ 

*家族

私が一年間お世話になったホストファミリーは、スウェーデン系でおじいちゃんGrandpa, Swan Bloomがアメリカに移住してきて築いた家庭だった。ホストファーザーのJohn R. Bloom はイギリス系の Norma Batesと結婚し5人の子(男3女2)設けた。一番下の息子 Darylが私のホストブラザーになり、一緒にHononegah高校に通った。

Grandpa夫婦は横に広い2世帯住宅の隣に住んでいて、父母John とNormaが働きに出ていたこともあって、何かとGrandpa夫婦にもお世話になった。Grandpaは裏庭の一角に野菜畑を持っていたが、後年私が日本から大根の種を送り、それを育てて収穫した後、アメリカにはないラディッシュだったので、驚きと喜びと共にどうやって食べたらいいかと質問がきたこともあった。Grandpa のもう一人の息子でJohnの兄は、太平洋戦争(飛行機事故)で亡くなっていたが、一家は日本からの留学生を快く迎えてくれた。

Hononegahという高校の名前は、19世紀初めにRock River 沿いを開拓し、Rocktonの基礎を作った毛皮商 Stephen Mack Jr.を病気の時に助け、後に彼と結婚したアメリカインディアン女性の名である。またRock River 沿いの森林保護区の名前にも付けられているが Hononega Forrest Preserveには、父Johnがハンティングに連れて行ってくれて、初めて猟銃と拳銃を撃つ経験をした。その後弟 Daryl と弓のハンティングでも森に入った。[編集部注:リンク先の写真は前後に動かしてたくさん見ることができます]

体育部などではHononegah Indiansという名称を使っていてMLBの Cleveland Indiansとはレベルが違うが、Indiansという言葉は誇りを持って使われた。

*友人

Rocktonは当時人口が2000人ほどで、Hononegah高校には近隣のRoscoe, South Beloit, Shirlandという町からも生徒が通っていた。町を一歩出れば広大なトウモロコシ畑が広がる典型的な中西部の農村地帯である。シカゴマーカンタイル取引所もこうした農村が背景にあるから成り立っているのだと、卒業後30年のReunion で戻った際、クラスメートJohn Sheddのセスナ機で近隣上空を飛んだ際改めて実感した。彼は現在東部のニュージャージーで焼き物(セラミック)の工房を営んでいるが、そこからイリノイの両親の農場まで自分のセスナ機で帰って来ていた。滑走路は農場の草地を使っていた。

彼のウェッブサイト John Shedd Designs ではちょっと面白いアメリカの焼き物が見られる。 
http://www.johnshedd.com/

リユニオンでびっくりしたもう一人は Tim、 高校時代は真面目で勤勉だった男が30年後は頭を剃りスキンヘッドにクモの刺青を入れ、皮ジャンで大きなハーレーに乗る怖そうなバイク野郎に変身していた。普通ならとても話しかけられない危険な様相のオジサンだったが、昔は仲が良かったので打ちとけ、翌日は彼のハーレーの後ろに乗せてもらい、町のブラックホーク通り界隈を30分ほど走った。愉快だった。

町はずれにあったWagon Wheelアイススケート場でジャネット・リンが練習をしていて、叔母に連れて行かれ挨拶をしたことがあった。ジャネットはその後72年の札幌オリンピック女子シングルスで銅メダルを獲った。ジャネットは別の高校だったが、ホノネガ高校にはアイススケートをするために他から転校してきた女子が二人いて、リユニオンの際はコーチをしていた彼女たちがNHK杯国際フィギュアスケートの話題を持ち出し当時より身近に感じた。

*事故

体育のレスリングの授業で鎖骨を骨折するというハプニングがあった。私は小学生の時から柔道の町道場に通っていたがレスリングのやり方はよく知らなかった。足を取られて相手の頭が私の肩に乗ったまま後ろに倒れた。ポキッ、左の鎖骨が折れ・・そして気絶した。先生の気付け薬で意識が戻ると激痛が肩を走った。その後病院までの車の中は揺れるたびに痛みが襲った。
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病院に父Johnが仕事から駆けつけてくれた。ああ、やはり大ごとなのだと思った。しかし病院での診察はきれいに折れているので骨がくっつくのを待つしかないというものだったらしい。治療は肩にたすきをかけて痛み止めの薬をくれただけだった。そして翌日はタスキをして学校に戻った。別に手術を期待していた訳ではなかったが、あまりに簡単な処置だったので、これがアメリカだと実感した。

その後数名のクラスメートからお見舞いのカードをもらったが、これには笑えた。
 

*授業

English の授業で Walt Whitman の詩を朗読して褒められたことがあったが、それが後で逆に日本語への関心を目覚めさせた。ノーベル賞を受賞した川端康成の「雪国」を読んで感想を言い合う授業もあった。「夜の底が白くなった」はどういう意味なのか、日本語で読んだ時はわからなかったが、英語訳を読んで初めて意味がわかった。英語ってスパラシイと思った。

一方アメリカ人の中国(共産党)嫌いを感じる機会がしばしばあったが、それに疑問を持ったことから次第に中国を勉強しようと思い始め、帰国後の自分の選択に影響したと思う。海外に出ると祖国を見つめるいいチャンスになるとよく言われるが、まさにその通りで、私の場合は関心が日本(語)・中国との関係・アジアの歴史・・などと次第に広がっていった。
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85年に仕事でスリランカに行った際、69年のAFSバスツアーで知り合った女性を探した。写真と名前しか持ち合わせてなかったが、地元のAFSオフィスで教えてくれた。何という偶然か、たまたま泊っていたコロンボのホテルのオーナーの奥さんになっていた。彼女は自宅に私と同僚を呼んで食事をご馳走してくれた。また現地スタッフとして働いてくれた人の中にAFSでアメリカで一年学んだ女性がいた。

AFSの体験は帰国後時間をかけて血となり肉となっていったが、アメリカかぶれという批判を受けたこともあった。しかしアメリカかぶれで体重が増えること・・肉体的に食べすぎて太るのと同時に精神的にも大きくなれればカブレルのも悪くない。最近私は中国かぶれで体重が増えてい

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