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伊澤 啓

伊澤 啓

伊澤 啓

Temple Hills,Md
Crossland High School
AFS徒然草

1.はじめに

わけあって、30代後半以降、国際分野や英語の世界から縁遠くなった。今もまだその延長線上にある。無念さがないといえば、うそになる。

海なし県の小さな町に生まれ育った自分は、いつの頃からか、海外に憧れを抱いていた。
英語のアルファベットを意識的に目にしたしたのは、小学4年の時だった。秋に国語の教科書。ローマ字のページ。全く読めなかった。当時何事にも理解の早かった自分としては不思議だった。心配した両親が、当時中学の教員だった私の叔父に「横文字」の手ほどきを依頼。それが、私の漠然とした海外への憧れを現実の夢の扉に向かわせた、小さいが偉大な第一歩であった。

英語を学びはじめてから、海外への憧れは、アメリカへ行ってみたいという多少具体的な夢に変わりつつあった。地方の進学校に入学し、ある日英語科の主任に呼ばれAFSの受験を勧められた。大学卒業後実現すればよいと考えていた渡米の夢が現実になった瞬間だった。

2.夢の実現、アメリカへ

サンフランシスコへ降り立った時、遂にアメリカにやってきたと感慨深くとてもうれしかった。アメリカでは、「はじめ」でなく「Jimmy」で通すことにしていたので、新生Jimmyの記念すべき日第一日目でもあった。
読み・書きと比べて、聞く・話すの英語力は、かなり劣るということは承知していた。案の定、サンフランシスコの空港での入国審査時に、管理官の「話す」英語は全く理解できないという事実で、その認識の確かさが、いみじくも証明された。以降、ニューヨークでの導入研修やホワイトハウスから車で、30分ぐらいのワシントン郊外のお世話になったWurzbacher家での初期の生活でも、この「聞く」という基本的英語力の乏しさに悩まされた。(正直なところ渡米してから2ヶ月半ぐらいで、漸くかなりわかるようになった次第。)

アメリカでは、ごく普通の中流家庭で(元空軍大佐の科学者であった父は、ちょうどその夏に引退して私の通うCrosslandHighSchoolの数学教師に転身、母は小学校の先生)、比較的インテリな家族や友人に囲まれて楽しい生活を送ることができた。当然のことながら、全体的には、アメリカの当時の豊さを感じざるを得なかった。車社会の凄さには驚くばかり。私の田舎は、東京より約60マイルの北西にあると説明しても、一時間以内で上京できるではないかという周囲の感覚であった。(当時東京に行くのは私には1日がかりの感覚!)最初ややホームシック的感情がおこり、日本から何か便りがないかと、毎日郵便受けを見にいったが、1ヶ月ほどですっかりアメリカの生活に精神的には溶け込めたようにおもえた。

家庭生活では、食事の量に驚かせられた。最初のころは、家族と同じペースで食べ進めるとお腹が一杯になり、デザートまでたどりつけなかった。食事の時に牛乳をがぶ飲み(?)するのには、参った。アイスクリームも実に良く食べた。(最近は、健康上控えているが、牛乳やアイスクリームは爾来私の大好物である。)生まれてはじめてPizzaを食べたのもこの時代であった。

比較的新設で、当時現職のJohnson大統領が視察に訪れた我がアメリカでの母校では、いくつかの点で驚いた。まず、全生徒が、3シフト制で動いていた。従って、昼食も3交代であった。この合理的な運営方法からか校長は、教育者というより経営管理の専門家の色彩が濃いように思えた。スポーツの分野では、シーズンスポーツの考えが浸透していた。また選手は公平なトライアウトで選抜されていた。(因みに、年2回あった校内の本格的な演劇でもオーディションがきちんと行われていた。)秋のフットボールのレギュラーが、冬はバスケットで活躍したり、春は野球や陸上でスターだった。確かに若い頃は、バランス良く鍛え、楽しむほうが理にかなっている。
勉学の分野では、教科書の重さにビックリせざるを得なかった。流石に自宅に持ち帰るのは、1-2冊が限度であとは割り当てられた各自にわりあてられたロッカーの中に置いてくるのが一般的であった。学生は総じて普段自宅で勉強はしていなかった。
むしろ、趣味や多方面の活動で忙しくしていた。ほとんどの生徒は親のスネをかじらず、将来働きながら大学で学ぼうとする文化は既に醸成されていた記憶である。所謂「できる学生たち」の進路がバラバラで自由なのにも多少驚きの目をもって見ざるをえなかった。私が見て一番よくできた生徒はテキサスの大学で海軍史を専攻すると語っていた。(後年大学卒業後、大学院まで見据える人も大勢いることを知った。)

校内で一番インテリな女子学生が親切でいろいろ教えてくれたが、日本流にいう「オール5の男子」のよりも、「全部4でスポーツマン」のほうが持てるといっていたのも思いだされる。各人の自己主張の強さは話には聞いていたが、肌でかんずることができた。滞在時期が、ちょうど大統領選(ニクソン対ハンフリー)とも重なっていて、校内でも模擬選挙があった。ずいぶんと白熱した議論が展開された。これが、将来の民主主義における政治への関心、投票する習慣をつけることへの良いトレーニングになるのだろうと思った。ささいなことだが、日本の自動車教習所的なコースが低学年に設けられていると聞き、この国の広さを違った意味で実感。

3.英語雑感

当時の私の読み書きの力と聞く力のアンバランスについて、一言触れておきたい。アメリカの家族は私がほとんどいわれていることがわかっていなかったと悟るのに2週間ぐらいかかったらしい。父親から、「事前に私からもらっていた数枚の手紙の文章など完璧だったので、私がオールラウンドに英語ができると考えていた」と。それから、必ず大事なことは家族全員がゆっくり目に話すようになった。だいぶ英語がうまくなったなあと思っていた11月のサンクスギブィングに母の姪夫婦が、幼稚園児の子供ずれで遊びにきた。夜、私とすっかり仲良くなったその子供が、不思議そうに、母親に聞いているのが耳に入り、愕然とした。内容は、何故Japanese Jimmyは我々と「違う英語」を話すのか?これを聞いて自分の真の力がわかった。
高校では、英文学、米国史、微積分、大学代数、パブリックスピーキング、タイピング、世界史を履修。米国史は、本来高校2年のコースだったが、校長の「せっかくアメリカにきたのだからこの国の歴史を是非知って欲しい」というたっての希望で取った次第。たかだか200年、なんとかなると思い気軽に指示にしたがったが、史実がくわしいのと、レポート提出が年4回もあり、大変だった。英文学は古い詩やシェイクスピアなど当時自分の英語力には、限界以上に感じられたが、同じクラスの弟や友人たちが、いろいろ助けてくれたので、なんとか乗り切れた。唯一の自慢は単語テストで、先生が「教養の為」という名目で毎授業数語覚えさせ、月一回テストをした。これは覚えれば私でもやれると思い、一生懸命取り組んだ。結果、毎回秀才組でも上位だった。(この英語のクラスと数学の2教科のクラスでは、その学校では最高レベルの人たちがあつまっていたので、米国のインテリ高校生の一端を覗くことができた。)また、スピーチの授業では、かなりいろいろなスピーチを実践させられたが、即席でないかぎりは、内容的には、日本での経験もこれあり、ほとんど苦にはならなく、発音を除けば、合格点だったと思う

4.帰国及び大学時代

夢のようなアメリカでの異文化体験のあと、日本の田舎町での生活への「逆適応」は案の定たいへんだった。しかし、新しいクラスメートが、少し変わった先輩を、暖かく迎えてくれたこともあり、徐々に元の生活になじめるようになった。アメリカの高校生活のおかげで、なんとなく人間が大きくなったような不思議な気持ちだった。一方、受験勉強への熱意はうそのように全く失せてしまい、その意味では、根性がなくなってしまった。
慶応大学経済学部に進んだ。両親よりせっかく東京へでるのだから、勉強だけでなく、より広く社会をみるようにとアドバイスがあった。そんなわけで、勉強はほどほどにし、大いに見聞を広めた。再渡米のチャンスはあったが、「次は大学院で再渡米」という意識がなんとなく芽生えていた。経済学」は、当時著名な加藤寛先生に経済政策を本格的に学んだが、あまり熱心な生徒とは言えなかった。英語についても、英語検定1級はとったが、あとはあまり勉強しなかった。この点は、非常に悔やまれる。入学当初は、英語学習への情熱もあったらしく、米国文学の英書購読をはじめたが、米文学にはあまりなじめず、中途半端に終わった。今現在、やはり政治・経済・経営の本や論文がある程度読めるわりには、おもしろそうな英語の小説が読みこなせないのは残念で、当時もっと鍛えておけばと後悔している。私見では、小説のほうが、政治経済書より2-3割難しい。

5.就職そして再びアメリカへ
体力面、国際分野での活躍願望、そして密かに抱いていた「アメリカの大学院へ留学の可能性」を考慮し、当時の言い方で「大手都市銀行」(現在のメガバンク)に就職した。 機会は3年たったところで訪れた。アメリカのUniversty of Pennsylvania のWharton Schoolへ。この大学院は、ファイナンスの分野に強く、ニューヨークのウォール街や著名なコンサルティング会社へのパスポートが得られるとのもっぱらの評判であり、知る人ぞ知る名門校であった。 今回は、「前回」と違って入国はスムーズに運んだことは敢えて触れておきたい。ロス・ニューヨークを経由して「電車」で、フィラデルフィア入り。AFS時代に、ニューヨークからワシントン入りした思い出深いこの電車に、再度乗ってみたかったからだ。
アメリカの大学院では、おかげさまで、AFS時代の経験が全面的に生き、生活面ではあまり苦労はなかった。英語面でも耳はある程度なれていたし、度胸が格段によくなっていたので、膨大な(最初そう感じた)リーディングアサインメント以外は最初からなんとかなった。
また、高校留学と違って、アメリカ各地から学生が集まっており、そのおかげで、英語の微妙な違いが徐々に多少わかるようになったし、アメリカの広さ・多面性を友人を通して実感できた。全米を広くみて回ろうと決めていたので、南はアメリカ最南端まで赴き、北はカナダのケベックまで足をのばした。また、果敢に大陸横断旅行に挑戦、文字どおりいろいろなアメリカをこの目で(旅行者としてではあるが)しっかりと見た。卒業後は実践的体験ということで、カリフォルニアにある現地法人に勤務し、合計で5年半のアメリカ滞在を終えた。一言付け加えれば、 フィラデルフィア滞在中に、数回ワシントン郊外の第二の我が家を訪れた。弟の結婚式にも参列できた。さらに、付近に住んでいた高校時代の友人何人かが、わざわざ会いにきてくれたことも嬉しかった。

6.「国際分野」への夢の終わり
通算で5年半の米国滞在から帰国後も、国際部門や営業部門で、商社を担当し、国内・国際両部門をまたにかけて仕事に励んでいた。忙しいが幸せな時を過ごしていた。そんな折に、不幸な知らせが舞い込んだ。私は、C型肝炎に罹患しているという。そして、当時の医学では完全に治癒させる方法はなく、遅かれ早かれ肝硬変・肝臓ガンに至ると。さらに、病気の進行を遅らせるために、医者としては全力を尽くすが、忙しい花形ポストは諦め、楽な仕事についたほうが良いとのアドバイスであった。疲れやすくはなっといたが、完全に第一線を去ることには、抵抗感があり悩みに悩んだ。
これもまたAFS時代に培われた産物なのだろうか、結局の所、落ち込むこともなく、明るい楽観的妥協案で、自分自身を納得させた。まず、2年間は悔いの残らないように、国内外の業務に全力投球する。その後は、最新医療を日本で継続的に受けるために国際的な分野での活躍という夢は、潔くあきらめる。また、己の運と医療の進歩を期待し、仮に「太く、短く」に終わってもよいので、国内業務でベストを尽くすことにする。
2003年8月下旬、体調悪化。余命3ヶ月と宣告された。同年9月10日、既に嫁いでいた長女より、生体部分肝移植を受け、新たな生命を与えられた。娘からの「長生きを」というたっての希望に添い、事実上ビジネスの第一線から引退。以来、周囲の皆さんのご厚意・ご親切と家族の協力で穏やかにくらしている。

7.AFSと我が家

ここで、一言AFSと我が家のかかわりを。まず、私の体験が、弟や妹の夢を広げたようだ。弟は、先生からAFSの受験を勧められたが、辞退した。しかし、その後、国際人に成長してくれた。妹も商社マンに嫁ぎ、ささやかながら民間レベルの国際交流に努めてくれた。私の3人の子供たちは、残念ながら、誰もAFSに関心示してくれなかった。この点では密かに孫たちに期待している。私のAFS体験をとおしての成長が両親には非常にうれしかったらしく、英語が全く話せないにもかかわらず、アメリカ人の女性を田舎の我が家でお預かりした。どのように、コミュニケーションがとれたのか不思議なのだが。その恩返しが功を奏し、彼女はすっかり日本が気に入り、後年上智大学に1年留学。アメリカの大学卒業後、「アメリカホンダ」に入社。日米間の梯になってくれた。

8.AFSが与えてくるたこと、まとめにかえて

61才のいまでもAFSに心より感謝している。頂いたすばらしいプレゼントをいくつか列挙すれば、以下となろう。
まず第一に、小さいころからの「いつの日にかアメリカへ」という夢を実現させてくれたこと。
第二に、田舎育ちの自分になんとなく存在した劣等感を払拭してくれたこと。それ故に、それ以降の人生を物怖じせずに歩めた。
第三に、大きく私自身を育て、人間的に成長させたくれたこと。両親もこれには痛く感謝したはずである。
第四に、若くして異郷の地で、異文化の中で、私の適応能力の芽を育ててくれたこと。
最後に、忘れてならないのは、その後に人生での武器でありまた教養という名の友である「英語力」の基盤を作ってくれたこと。また、前述の肝臓移植後、健康面の制約があり精神的に引きこもりがちだった私にたいし、最近のReunionを通して、社会復帰を促してくれた大勢の仲間ができたことを挙げて、感謝の意を表したい。最後の最後に、先日若くして惜しまれつつこの世を去ったAppleの創業者にしてカリスマ経営者の言葉を一部借りれば、「生まれ変わったら、もう一度AFSで、若くして異郷の地に踏み出し、人間的に鍛え上げて、より国際的に活躍できる人生にしたい。」という言葉で、この寄稿文の筆をおきたい。
以上
伊澤 啓

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