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八木(衣笠)温子

八木(衣笠)温子

八木(衣笠)温子

Mayville High School, Mayville, Wisconsin

高2のある日、英語の教師からAFSの存在を知らされました。まさか受かるとは思っていなかったので、親には内緒でこっそり受験。自分が親になって、よくあの時代に女の子を海外に行かせてくれたと今は亡き両親には感謝せずにはいられません。今思えば、当時のアメリカはベトナム戦争の最中でしたし、暗殺、学生運動とかなり揺れ動いていた時代だったはずですが、そんな事は殆ど感じず、テレビを見て憧れていたアメリカの豊かで便利な「文明」生活を目の当たりにして感激し、貴重な体験をさせてもらった一年でした。

滞在先は典型的な中西部の人口3千人位の小さな町で、周囲にはトウモロコシ畑と牧場が広がっていました。黄色と緑のJohn Deere社の大きな耕運機やトラクターが懐かしいです。住民の祖先はドイツ系かスイス系が多かった為、くしゃみをすると皆(God) Bless youではなく"Gesundheit"と言っていました。町には映画館もなかったので、友達と「ロメオとジュリエット」を観にシカゴまで行った記憶があります。町全体でAFSの受け入れ態勢が出来ていたようで、1軒の美容院から1年間無料でカットしますと申し出があり、本当は憧れの長髪にしてみたかったのに断るのも悪くてお願いしました。町の新聞社の人が何かというと取材に来て私の行動が記事になりました。新聞に写真が載るなんて、最初は有名人になった気分で嬉しかったのですが、段々鬱陶しくなって、パパラッチに追いかけられるセレブの様な(?)心境でした。

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街の新聞に載った写真の一例(私の卒業を祝う会)

家族は弁護士のお父さんと専業主婦のお母さんと子供3人+プードル。家の裏はなだらかな斜面(1エーカー)になっていてその先には川が流れ、専用の桟橋がありました。夏にはカヌーに乗り、冬は凍った川でスケートをし、斜面でソリやトボガンで遊びました。9月には紅葉が始まりましたが、色づいた木々といつまでも青い芝の組み合わせは見事でした。

18歳の女の子としてはファッションはかなり気になりました。host sisterが書いているように相当ダサかった私でさえ、どんどん短くなっていたスカート丈には乗り遅れまいとこっそり短く直していました。スカート丈についての学校のドレスコードも、その年には「生徒の自主性に任せる」ことに変更になりました。規則が流行に追いつけない状況だったのでしょう。この家には洋服(ベビードールでさえ)を買うと必ず父親の前で着て見せる習慣があり、ある時「短すぎるからお店に返して来なさい」と言われ、泣く泣く従いました。父親としては「娘達」のどんどん短くなるスカート丈は気がかりだったと思います。

学校は公立高校(4年制で500人位)で、生徒はちょっと浅黒い顔の子が2、3人いただけでした。AFS生(毎年1人)は私が3人目で、この年にAFSクラブが発足。いろいろ助けてもらいました。なるべく楽をしようと選択科目では体育、家庭科、美術、音楽等を取りました。初めての体育の授業が終わると更衣室で皆一斉に体育着を脱ぎ捨てて、全裸になったので慌てました。どうやらシャワーを浴びることになっていて、バスタオルもちゃんと用意されていました。楽勝だと思っていた家庭科でもquizで”Do you think men should wear the pants?” という質問が出た時に、さすがにpantsが下着でなくズボンを意味する事は知っていましたが、しばらく悩んだ末に”What else should they wear?”と先生に聞いて爆笑ものでした。授業は兎も角、指定された格好をして行く日やフットボールの応援、自作の服を着るファッションショー、ミュージカル、ホームカミングなど楽しいことが一杯あり、勉強と部活だけの日本の高校生活がとてもつまらなく思えました。学年最後の授業が終わると、生徒が一斉にロッカーに入っていたノートや紙を廊下や階段にばらまいたのには驚きました。
勿論私には大切な記念品だったので、こっそり持ち帰りました。

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学年最後の日にばら撒かれたルーズリーフやプリント。撮影したのは音楽の先生。

人前で話すのが苦手な私にとって、多い時には月に2回位頼まれたスピーチは時として苦痛でした。こんなに良い思いをさせてくれているのだから、せめてのお返しにとは思いましたが、気乗りのしない時もありました。準備しておいたスライドやパンフレットなどのvisual aidは大いに役立ちましたが、我が家の和式トイレのスライドを見せた以外どんなものを見せ、何を喋ったのか・・・オジサマ達の中には、「日本に行った事がある」と話しかけて来る人が時々いましたが、「進駐軍として行ったが、懐かしい」と言われるとどう反応して良いのやら困ってしまいました。親の世代にとっては敵国人同士だったこと、そして日本は敗戦国だったことを実感しました。

半年も経たない頃、ベトナム戦争の為に沖縄に駐留していたこの町出身の双子の兄弟が名古屋の実家を訪ねたがっていると聞いてビックリしました。何しろ私が町に着いた時には彼らはいなかったので、会ったこともなかったからです。それを手紙で知らせた両親はもっと驚いたでしょうね。本当に彼らはやって来て、両親に会いました。しばらくして一時帰国した彼らにその時の様子を収めた8ミリを見せてもらったのを覚えています。

バストリップの一週間位前にhost mother とたまたま二人きりだった時、キャビネットの奥から若い男性の写真を取り出して、「これが最初の夫だった人です」と話し始めました。母親は父親より7歳年上であることは家族のプロフィールで知っていましたが、新婚の時最初の御主人が急逝しその後再婚したこと、夫が弁護士になるまで彼女が家計を支えたこと等詳しく話してくれました。最後に「この事はまだ(自分の)3人の子供達には話してないけど、『長女の』貴女には言っておきたかった」と言われ、ジーンと来ました。そして、バストリップで最初の家庭に泊った時、羽織っていた薄手のコートのポケットにふと手をやると”Remember I love you, Mom”と走り書きしたメモが入っていて、それを見て号泣してしまいました。いつ書いて、入れたのか…全く気づきませんでした。

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帰国後のホストファミリーとの交流については、host sisterが書いていますので割愛します。彼女が長じて日本人AFS生のホストマザーになったのも不思議な「縁」を感じました。

今振り返ってもあの一年だけは別の色で輝いていますが、折角の留学経験をたいして生かすこともなく、またAFSに恩返しも殆どせずに来てしまいました。帰国後のオリエンテーションで「アメリカナイズされ過ぎず、また純日本的にもならず、バランスの取れた人間になって下さい」と言われたことはずっと心の片隅に残っており、そのように努めて来たつもりです。今後、何か恩返しが出来ればと思う日々です。

My Memories of Atsuko  August, 2011  By Ellen Hemstock, AFS sister

    I remember that I found out a Japanese student was coming to live with us while I was attending summer music camp at UW – Madison in July, 1968.  I was so very excited and wrote Atsuko a long letter about our family.  When Atsuko arrived, she was very shy.  I’m sure that the language barrier was part of this.  She was very serious and such a wonderful student!  Atsuko inspired me that year in the way she studied to learn English.  By Christmas, she was doing amazingly well. By May, Atsuko was able to give a speech at commencement – this was not an easy task for anyone, but she held the attention of all who filled the gymnasium. We were so very proud!
     I remember spending a lot of time talking to her about differences in our culture.  At first, wearing American style clothing was new to Atsuko.  (She was used to wearing uniforms to school.)  Some of the combinations of plaid shirts and striped skirts were very interesting!  It didn’t take long for Atsuko to become a part of our family. She was so anxious to learn about everything.  Her enthusiasm was very catching!  She introduced fish flavored with soy sauce and many rice dishes.  I think we even tried a curry dish.  She also taught us how to use chopsticks. 
    It has been wonderful to have a Japanese ‘sister.’ Atsuko and our extended family have kept in touch all these years. To me this friendship, that has lasted a lifetime, has been the most amazing part of our AFS experience.  Atsuko’s father came to visit us (1972).  It was great to be able to get to know this wonderful man. When Atsuko and her family were living in New Jersey, they came to Wisconsin to visit (1991), and we attended a baseball game in Milwaukee.  Atsuko’s boys really loved that adventure.  Mom and Dad have been to Japan to visit (1982) and were able to experience the Japanese culture firsthand.  My brother’s daughter, Julie, met with Atsuko in Tokyo when she was on a class trip in 7th grade.  Most recently our son, Brian, who sings with the Glenn Miller Orchestra, has been able to see Atsuko in Nov. 2009 and again in Nov. 2010.  During his 2010 visit Brian was able to meet with Atsuko and Yukiko (Our family’s Japanese AFS student in 2002-2003).  They had a sushi dinner together in Tokyo.  AFS has brought us together and made the world a smaller place.  It has been a wonderful journey.

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