Welcome to AFS YP15

図子 修

図子 修

図子 修

Garey High School、Pomona、California

AFS留学がなかったら、今の自分はどうしていただろうと、時々思うことがあります。もちろん、帰国後学んだ大阪大学や、長年務めた伊藤忠商事、そして結婚生活の方がはるかに自分を変えて行ったわけですが、心の奥深いところで、たった一年のあのアメリカ時代を引きずっているように感じています。3・11の大震災のあともそうでしたが、アメリカ人、それも政治家や学者ではなく、私が接した多くの普通のアメリカ人たちなら、どう対応するだろう、どう考えるだろうと頭の隅の方でふと思っているのです。

その後、何度もアメリカに行く機会がありましたが、行く度に何となくアメリカは変ってしまったとよく感じていました。留学当時はベトナム戦争が厳しくなりつつある時代でした。ソ連の自壊で長い冷戦は終わりましたが、アメリカは、今でもアフガニスタンで戦争をやっています。変ったのは戦争の相手であり、戦争をやりながら、宇宙開発に大金を費やし、広い国中に無料の高速道路を張り巡らせて、最先端技術や高度な医療を持ち、大学を始め世界中から人々を寄せ付けていることに変わりはありません。一部の報道とは違い、中産階級が充分豊かな生活を送っているのも昔からです。日本の経済力が上がり、相対的なアメリカの輝きが失せてきたということもあるでしょう。となると、本当に変ったのは日本、もしくは私の方ということになりますが、日本にいると「どうして日本は変わらないのだろう」と思うことの方が多いのはなぜでしょうか。

1968年夏、サンフランシスコ空港に降り立つ前の飛行機の窓から見えた赤茶けた山並みが妙に印象に残っています。当時、私のような地方の高校生にとってアメリカはあまりに遠く、留学試験に合格してから日本を飛び立つまで、正直アメリカでの生活がどうなるのか全く想像できていませんでした。今思えば、日本の高校生活からとにかく逃避したいというのが本音で、それから先の見通しはほとんど無かったようです。アメリカに着いて、今からアメリカでの生活が始まるのだ、もう戻ることはできないという感覚にしてくれたのは乾燥した空気と何車線もある高速道路でした。Stanford大学でオリエンテーションを受けた後、ロサンゼルス空港でホストペアレント(Mr. & Mrs. Peacock)に迎えられ、そこから約30マイルほど東にあるPomona市の彼らの家に着きました。英語もよく分からない不安な日々のスタートでした。1週間ぐらいたって、家族5人(Mom、Dad、Jon、Shelliと私)で彼らの出身地であるモンタナ州まで夏休みの里帰りに車で行くことになりました。カリフォルニアの砂漠を抜け、ラスベガスのモーテルで一泊、ソートレイクシティーとイエローストーンに立ち寄り、3~4日後モンタナに着いたような気がします。モンタナでは牧場で馬に乗ったり、川釣りに連れて行ってもらったりと自然を満喫しました。開拓時代のアメリカの雰囲気が残る小さな町での生活は、西部劇の中にいるようでした。そして何よりも私を本当の孫のように扱ってくれたJon達のGrandmaの優しさが心に残っています。帰国後、ほとんどGrandmaに手紙を出すことができなかったことは、今でも申し訳なく思っています。

Garey High Schoolはまさに人種のるつぼでした。ヒスパニック系やアジア系の人も多く、アメリカと言えば、白人と黒人しか頭に描いていなかった者としてはびっくりでした。当時、ロサンゼルスは米国でも最先端の文化発信地で、輝いていたのは太陽だけではありませんでした。ハリウッドやべバリーヒルズを筆頭にロサンゼルスの文化が世界をリードする勢いがありました。ベトナム戦争の影も少しはありましたが、高校内では人種の壁をなくして、自由でより豊かな社会を築いていこうという自信を持った人たちが多かったような気がします。確かにその豊かさと理想主義には感心していましたが、「どうだ、ここは素晴らしいところだろう」という押しつけがましさを少々感じていたのも事実です。
高校の授業がセメスターごとに選択制だったのも驚きで、大学に入ったような気がしました。その中で、毎日時間割の最後に、PE(体育)もしくは体育系クラブの活動をすることになっていたのは、とても良いシステムだと思いました。後半のセメスターでテニスチームに入り、毎日テニスをやりましたが、おかげで卒業前にVarsity Letter(1軍で試合に出ていたという証しみたいなもの)を貰え、今でもたまにテニスを楽しむことができています。ひとつの競技が得意な人も、セメスターごとに種目を変えるのが普通で、例えば野球とアメフト、陸上競技とバスケットなど、高校時代までは複数の競技を経験するべきだという考え方が一般的なのでしょう。リトルリーグから始まり甲子園まで野球一筋というのを全く否定するつもりはありませんが、高校時代まではどんな才能があるか分かりませんので、できるだけいろいろなスポーツを経験できる仕組みを日本も見習ってもらいたいと思います。高校間の試合も1軍だけでなく、2軍同士の試合もあり、補欠の部員はベンチを温めているだけということは、どんな種目でもありませんでした。また、日本の高校では練習に力を入れますが、米国ではできるだけたくさん試合を経験させ、試合の中で育てていく方針のようでしたので、練習中にテニスコーチから細かいことを言われた記憶がありません。もっとも、あまり上手な選手でなかったというのが理由だったとは思いますが。それでも、一度試合後に、「ダブルフォールトでもいいから、セカンドサーブも全力で振れ」と言われたことを鮮明に覚えています。ゴルフでも何でもそうですが、コーチはあまりたくさん言わない方が良いコーチのようです。
卒業式では、名前がZushiのため、ABC順で最後に壇上に上がることになりました。校長が最後の卒業生である私に卒業証書を渡した瞬間、体育館が大拍手に包まれ、まるで自分一人が拍手をもらっているような気持ちになりました。ロサンゼルス近郊の高校は卒業日にディズニーランドに招待され、夜通し皆と遊んだのも良い思い出です。

1978年5月新婚旅行でロサンゼルスに行き、家族と久しぶりに再会しました。妻を紹介すると、家族がひとり増えたとたいへん喜んでくれました。当時Jonも結婚し、赤ん坊ができたばかりでした。それから長年にわたりお互いの子供たちの成長をクリスマスカードで報告しあうことになりました。

R0013587図子

その後、日本に家族みんなで来てもらうことができましたし、High School時代の英語の先生も夫婦で遊びに来られました。私も就職してからは、仕事でロサンゼルスに行くときは、出来るかぎり金曜日になるように調節し、週末にPeacock家に泊まれるようにしました。アメリカの両親は、いつも遠くに住んでいる息子が帰ってきたと喜んでくれました。

IMG_0111s図子

10年ほど前、彼らはシアトル郊外のBellevueという町に移りました。6年前に妻と一緒にBellevueを訪問しましたが、当時Dadは既に80歳を過ぎ、少し心臓を病んでいました。帰国の挨拶をしているとき、Momと私の妻が涙ぐんでいるのを見て、「もう会えないかもしれないな」と心に過ぎったことを覚えています。幸い、今年6月にサクラメントでの仕事のついでにBellevueを再度訪問することができました。シアトル周辺は涼しく、湿度もほどほどあり、緑も多く、カリフォルニアとは違った住み心地の良い所です。かつてシアトルはボーイングが最大企業でしたが、今ではマイクロソフトやアマゾンなどIT関連企業が活力の中心になっているようです。

Seattle郊外

2年半前に伊藤忠を辞め、住宅地開発のコンサルティングや環境工学の研究をするために、次世代環境デザイン研究所という会社を作りました。実は、アメリカを引きずっているテーマのひとつが住宅地環境の差です。あれから40年以上経ちましたが、日本の住宅地環境は全く追いつく気配さえありません。ホテルもオフィスビルも商業施設も引けを取らなくなり、何より自動車を始めとする輸出産業はアメリカを脅かすまでになりました。しかし、問題になったサブプライムローンの住宅が建ち並ぶ住宅地でさえ、日本にもってくれば高級な部類に入るでしょう。なぜ、日本の住宅は30年経てば価値がなくなり、アメリカでは資産として貯蓄の代わりになっているのか?

Sacramento郊外

なぜ、アメリカの地方都市の郊外は豊かな住宅地で満たされているのか? 実際、アメリカでは大都市よりも地方都市の郊外の方が豊かな生活をしているようです。今回の旅行で、マイクロソフトのキャンパスが近くにあるIssaquah Highlandsというシアトル郊外の町も訪問しましたが、そこは緑濃いゆたかな住環境と街としての統一性には感心しました。それにもかかわらず多様な価格帯の住宅を持ち合わせていました。自由と自己責任というアメリカの価値観とは、一見相容れない住宅地の統一感や制約の多さ、それによって生まれる景観の美しさなど、まだ学ぶべきところがあると考えています。
2011年9月

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional