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増澤史子

増澤史子

増澤 史子

The Madeira School
McLean, Virginia

AFS—全てはここから始まった  

家族との出会い

忘れもしない暑い8月4日にNYからバスでワシントンDCに到着しました。私はAFSのNY最終選考の知らせが来たのは7月に入ってからでした。多分落ちたのだろうと諦めてかけていましたので決まったときの喜びはひとしおでした。滞在先の住所はヴァージニア州ですが、ワシントンDCのダウンタウンから30分程度ですからDCの郊外に住んでいたと言ったほうが分かりやすいでしょう。
家族はアイルランド系でカトリックの父、スエーデン系でプロテスタントの母。1歳年下の妹(同学年)と14歳年下の弟。ちょうど到着した日がその弟の4歳の誕生日でした。一人子である私には兄弟姉妹と暮らすとはどういうことなのかという別の課題も抱えていました。家に着くとすぐに隣人のpool partyに連れていかれて、そこのhostessから庭で摘んだwelcomeの花束を渡されたことを覚えています。全てはここから始まりました。
最初の夜は父親が留守でした。ジャーナリストであった父は大統領選の取材でフロリダのコンベンションに出張中で、会えたのは、2,3日経ってからでした。
母親も結婚前はジャーナリストだったので、書くことが好きなこの母のおかげで連絡が途絶えることは42年一度もなかったのです。
家はNew England風のfarmhouse で決して豪華ではありませんでしたが瀟洒で感じのよい家でした。

AFS時代に過ごした家
AFS時代の家増澤

家族とのふれ合い:

後で考えてみるといわゆる典型的なアメリカ人の家族ではなかったように思います。ジャーナリストの家なのにテレビがなく、ラジオと山と積まれた新聞と雑誌が情報媒体。スポーツにはあまり関心がなく、絵画や音楽が好きな一家でした。母親が料理好きでデザートも含めて全て手作りで、アメリカの家庭ではよく缶詰を使うと聞いていたのですが、インスタント食品はあまり食べたことことがありませんでした。スパゲティソースも前日から作って用意する人で、朝食もオムレツからワッフル、パンケーキなどなど日替わりで文句なし。昼食が一番質素で、学校にはサンドイッチに、バナナやりんご、それにクッキーや前夜の残り物のケーキなどをbrown bagに入れて持って行きました。夕食は、カトリックの父の影響か、金曜日はいつも魚料理。デザートは毎晩、今まで食べたことのないケーキやパイが次から次とでてきました。数年経ってわかったことですが、食べることの好きな私のために、その年は特別に母親が腕を奮ってくれたのだそうです。おかげで、帰国まで少なくとも体重は10キロは増え、日本から持参した洋服ははち切れんばかりの状態でした。
夕食は必ず、キャンドルの灯で、デザートが終わるまで、毎晩7時から9時までの2時間。私にとっては夜間授業と言っても過言ではありませんでした。
夕食の会話の最初の言葉は、冗談のように聞こえるかもしれませんが、母親の“What’s new in the world?”で始まります。多分冗談から始まったものだと思われますが習慣になっていたようです。まず、父親がアメリカ国内や世界で起こっているとhot newsを説明してくれます。1968年は大統領選挙の年ですから、選挙の話が多かったと記憶しています。家族は保守的なRepublicanで、Richard Nixonを応援していました。後にWatergate事件があるなどは夢にも思ってもいなかった頃です。また父親は、教会がその年に暗殺されたRobert Kennedy と同じで、懇意にしていたこともあり、Kennedy家のことも話題に出ました。あるとき、母親が「今日、King Arthurが来たわ」と言うのです。この家は王族とも知り合いなのか(大変だな)と思ったのですが、よく聞いてみるとそれは隣人の飼っている犬の名前でした。言語を理解するのはcontext抜きでは、無理だと悟った瞬間でした。意味は話す側でなく、聞く方にできるものだとつくづく思ったものです。父親の話が終わると今度は私も含めた子供たちの番で、それぞれが学校で何があったか報告するのです。それにQ&Aセッションが始まります。私が理解できない言葉が、出てくると母親がすぐに口頭でspell outしてくれ、意味を教えてくれ、またparaphraseしにくいものは、すぐに立ち上がって辞書を持ってきて定義を説明してくれました。ジャーナリストの家庭らしく、言葉の定義が好きで、後に妹がlawyerになったのもこの影響もあったのでしょう。学期が始まると父親が最初にプレゼントしてくれたのがCollege Websterでした。今でもこの辞書は本棚に飾っています。

父からもらったCollege Webster
DSCF1376増澤

The Madeira School:MADEIRA GIRLS have something to say.

この学校は1906年に創立され、376エーカー(約46万坪)の広大な敷地を有し、日本の桜で有名なポトマック川が見下ろせる場所にあります。敷地内に森やBlack Pondと呼ばれるボートこぎや泳ぐことのできる池もあります。夏の乗馬学校でも有名で、体育の時間に乗馬をとる生徒もいました。まさか私立女子校のPrep School通うようになるとは夢にも思ってもいませんでした。1学年約80名。三分の二が寄宿舎生で残りの三分の一がday girlsと呼ばれる通いの高校生です。私はこのday girlsの一人で senior に入りました。

学校のスローガンに” MADEIRA GIRLS have something to say.” とありますが、その通りで、ヒラリー・クリントンの卵のような女子だらけで、共学しか通ったことのない私は女子校というものに対して持っていたイメージをことごとく打ち砕かれてしまいました。
学校が始まってすぐに、試練は突然に襲ってきました。
Seniorにはいろいろな特権が与えられていますが、その中にHead Mistress招待のランチというのがあります。校長は敷地内に居を構えていて、そこでランチパーテイが年に何回か催されます。当時の校長はBarbara Keyser という大柄な方で、米国史の専門家でした。その立食ランチの最中に校長が私に近寄って来られ、突然に質問です。 “Fumiko, how do you explain Pearl Harbor?” 一瞬どう答えてよいかわからなかったのですが、即座に”How do you explain Hiroshima, then?” と反応してしまったのです。周りは皆、freezeしてしまいました。校長が私の答えに笑ってくれたので、その場はおさまりましたが、卒業までにこの回答を出さねばならないのだろうかなどと真剣に考えてしまいました。もっとも、後で、これは私の性格を試したのだと気付きましたが、それにしてもあまりにも直接的。名前もカイザー。威厳が洋服を着ているような校長で、生徒の間でも怖がられていました。この校長から卒業式のときに、よくがんばったと認められ、hugしてもらったときの感動は今でも甦ってきます。

少人数クラスの質の高い授業

授業の1クラスの人数はすべて10人程度。1年から4年生まで必修科目は学年毎に、選択科目は学年を越えてtrack system (能力別編成)をしていました。
4年生の英語(国語)は、1年間で数人の授業担当者がローテーションを組んで、小説、演劇、詩、creative writingなどのジャンル別に授業が行われます。私は当然一番下のクラスで、読む量が少ない演劇の授業から始まったので助かりましたが、それは障害物競走のような1年でした。ギリシャ悲劇のAntigoneに始まり、Shakespeare のHamlet、Oscar Wilde の Lady Windermere’s Fan. 次に小説のクラス。Thomas HardyのTess of the d’Urbervilles , William Faulkner のLight in August、Saul BellowのHenderson the Rain King と容赦なしに読まされて、辞書を引けども、引けども追いつかず『テス』は日本で読んでいたことがあったので日本に手紙を書いて家にある翻訳本を送ってもらう始末でした。後に私は東京教育大学の英語学英文学専攻に進むことになったのですが、Thomas HardyとWilliam Faulknerはトラウマ状態で、二度と読みたくありませんでした。
素晴らしいと思ったのは歴史のクラスです。日本では事実や年号の暗記といった授業でしたが、この高校の米国史のクラスは、最初の授業からBoston Tea Party に関してクラスを二手に分けてアメリカ側対イギリス側でdebateの授業なのです。私は全くお手上げで、drop out. 低学年のとる講義形式のEuropean Historyに変更させられました。しかし分厚いテキストや資料集は持って帰国し、大学生になってから、やり残した宿題を終えるように読みました。

 この学校を有名にしたのに、               
Co-Curriculum Program (http://www.madeira.org/co-curriculum/index.aspx)
というのがあり、これは現在でも続いています。Wikipediaに信用できる記述がありましたので、それを引用します。

The Madeira School requires students to participate in a unique internship program, called the Co-Curriculum Program. Instead of attending regular classes on Wednesdays, the students do the following: Freshmen attend classes on study skills and participate in Outdoor Adventure programs like canoeing, kayaking, and rappelling. Sophomores choose a community service placement, often at a soup kitchen, childcare facility, or hospital. Juniors work as aides to Congressmen and Senators on Capitol Hill. Seniors pursue an internship in the field of their choice.

私は学校側の配慮で、3年生がCapitol Hill やLibrary of Congress, The Supreme Courtの社会見学のときは、それに参加させてもらい、また4年生が2週間Practicumという名前でいわゆるInternshipをするときは、ホストシスターと共に総合病院で患者に必要な生活用品をワゴンに入れて販売して歩く仕事を2日ほど手伝わせてもらいました。この時代としては画期的なカリキュラムだと思っています。

クラスメイトともに:私は高校の制服で
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AFS時代は一生涯分の運をここで使ってしまったのではないかと思うほど恵まれた環境で教育を受けることができました。妹はプリンストン大学に進み、そのあとジョージタウン大学のlaw schoolを出て、Lawyerになりました。同じLawyerと結婚しましたが、離婚し、その相手も昨年病死しました。年の離れた弟はオハイオ州のKenyon CollegeからJohn Hopkins大学院を出て、NYの製薬会社で仕事をするビジネスマンです。父は2008年3月に他界しました。2007年の後半はsabbaticalでDCにいましたので、最後の日々を共に送ることができました。
母はまだ健在で先月会ってきたばかりです。私の日本の親は、両親とも他界しましたので、本当にこの家族が自分の本当の家族と言っても過言ではありません。それだけでもAFSに感謝してもし尽くせないものがあります。

AFS留学後
大学時代は日米学生会議に参加し、大学院も米国に戻りました。仕事でも米国に勤務先の大学のサテライトキャンパスをボストンに設置するプロジェクトに関わるなど、教鞭を取る傍ら、常に、日米交流に関係してきました。定年後も、どういう形かは定かではありませんが、きっとまた太平洋上を飛んでいるような気がしています。
英語教育については私なりの強い主張もありますが、今回は紙面の関係上、これについてはまた機会があれば書きたいと思っています。

AFS留学から約40年。紆余曲折はありましたが、四捨五入すれば幸せな人生を生きてきたと思っています。これからもこの延長で、少し肩の力を抜いて、行けるとこまで、行ってみようと楽観的に考えている日々です。

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