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宮本幸伯

宮本幸伯

AFS15期記念文集

宮本幸伯(みやもと ゆきのり) 

Blake School, Wayzata, Minnesota

Wayzataはミネアポリスの郊外でLake Minnetonkaの湖畔にある小さな町です。後でわかった事ですが、当時米国で一番多く億万長者が住んでいる町であったということです。

夢のような生活

ミネアポリスではホストのお母さんが迎えにきてくれていて家まで連れて行ってくれた。 出発前母の手紙で家族の紹介がされていて一番下の弟以外は私が到着する頃には他の兄弟はキャンプや東部の大学に行っており自宅にはいないと知らされていた。 それと家族で私を連れて旅行に行くと書いてあった。 この弟は一番近い兄弟とも6歳以上はなれていて兄弟からのけ者扱いされていて手紙には「nuisance」[厄介者]と説明がされていた。でも本当は「良い子」なんですと付け加えてった。 正直で信頼出来る人と思った。 3日後母、弟の3人でNYの隣の島(Fisher’s Island)へ出掛けた。 この文章を書いていて思い出したが僕たちの子守のアルバイトと休暇を兼ねて親戚の女子大生が同行していた。 島のお城のような別荘には週末には長女、長男と叔母さんやマンハッタンに住んでいる伯父さんがほぼ毎週金曜日に近くの別荘にいるお祖母さんのところに来ていた。 誰の所有なのか良く判らなかったが大型のクルーザー(外洋も航海出来る)が一艘と小型モーターボートにBird’s Eyeという小型のヨットがありそれぞれ皆さんがよく遊びに連れて行ってくれた。 優しかった伯父さんは船で釣りに連れて行ってくれたが餌を使わずにルアーをつけて何時間が釣りをしたが魚は釣れずに「No Fish today.」で終わった。 若者だけで海に出た時は前日にモーターボートでロブスターを本土まで買いに行った。港で漁師に海中から生きたロブスターが入っている籠を引き上げてもらい何匹かを選んだ。 翌日姉、兄、従姉妹と僕の4人でBird’s Eyeで大西洋に出掛け凪で昼食となった、年格好は6歳違いの姉が一番離れているくらいで似通った若者であったが彼、彼女達が将来の夢や希望、今置かれている立場、政治について話し合った。色々と考えされられるものがあった。共通点は皆それぞれに裕福な家庭の子弟であるにも拘らず親を頼るとかといった考えは無かったように覚えている。 美術の研究に生涯を掛けたいとか文学に打ち込みたいとかお金儲けとは縁の無いような話をしていた。 自分もまだ心もとさが残る英語で話に参加をしたし色々と話に加わるように水を向けてくれた。 
ところで問題の弟であるが確かに凄かった。普段はまだ良いのだが少しでも気に障ることがあると手の付けられない位短気を起こして興奮して物を投げたりもする。 この時兄弟は手が付けられなくて無視をする感じであった。 母は優しくも威厳のある対応をしていたが、この弟はかまって欲しい、自分の話を聞いて欲しいと思っていると思い、僕は努めて話し相手になると決意をした。 楽しいFisher’sでの休暇も終わりミネソタに帰る途中にワシントンDCに立ち寄り母の友人の家で数日を過ごしスミスソニアン博物館を見て回わり感動をした。 ミネソタへの帰途これから始まるBlake Schoolでの想像を絶する学校生活のことはつゆも知らずに日本とかけ離れた上流生活を楽しんだ余韻に浸っていた。

大変だった学校生活

すぐ下の弟に学校が始まる一週間位前から毎日彼の運転する車でサッカークラブの練習につれて行ってもらった。 アメフトに比べれば危険は少ないと思いスポーツが必須であるためそのままサッカーを続けた。 授業の科目の選択は英語、アメリカ史が必須で加えて化学と数学、スピーチ、速読を取った。 毎日同じ時間に同じ科目を受講する日本とは異なるシステムであった。 それぞれの科目ごとに困難はあったが、何よりも化学は大変であったがこれほど僕の人生を良い意味で刺激を与えてくれたクラスと先生は無かった。化学は好きな科目で簡単と鷹を括って臨んだのですがこれまた大変なことに。。。 1907年創立の歴史あるBlake Schoolはこれまでに米国の政財界に多くの人材を輩出している有名校であった。ちなみにBlakeは男子校でNorthropという女子高があり姉妹校となっていた。 その後合併してBlake Schoolsとなり現在はThe Blake Schoolと改称されている。 昼食は大食堂で小学校4年生から高校3年生まで一斉に会しテーブルの上座に座った先生が生徒に食事をサーブしてお祈りをして食べるのです。 私のテーブルは化学の先生でした。化学の授業は昼食後すぐで真面目に勉強をしようと僕は一番前の席に座ったが日本からの欠食児童は美味しいアメリカの昼食に満腹で先生の化学の歴史の話は子守唄で延々と続き船を漕いでしまった。 

一ヶ月ほどして何の前触れも無く突然テストが行われた。 テスト、クイズと先生は言ったがテスト用紙は配られる様子も無くクラスメート達はそれぞれのルーズリーフのノートを破り半分に折って自分の名前と出席番号を書き始めており僕も同じようにまねた。 すると黒板に問題を書くわけでも無く、「Question 1, ???」とはじまり合計10問ほどが出題された。解る範囲で回答したが僕の予想は零点に近いもので次の授業で返却されたテストがなんと100点満点中の12点で最悪の状況。また追い討ちを掛けるように先生の説明が「満点でない生徒は間違いを訂正して私の確認を取るようにと。 そうすれば今回の得点が私の通信簿に記録されます。訂正をしない者は永久に得点が記載されずゼロ点のままになる。」とのこと。 翌朝化学の先生を訪ね如何したら良いかと尋ねると、「私はあなたを助けることは出来ない。君が努力して自分で合格点を取ることしかない。」と泣きたくなるような冷たいお言葉。「授業のお話が良く聞き取れないのですが?」と馬鹿な質問をすると「少しは昼食の量を減らして授業での居眠りを止める努力をしたら??」と逃げ道の無い鋭いご指摘。「判りました明日から日参してわかるまで教えを請いますと」退室すると教室の外ではクラスメートが「12点だ、解ってない馬鹿だ」と罵声を浴びせてくる。何の容赦も無い、18年間も違う世界で育ちハンディがあるのにと思ったがこれが現実でここの卒業生がアメリカの将来を引っ張っていくのであればと考えると負けられないと思った。 ともかく少なくとも卒業だけはして来年落ちこぼれでは無く皆と一緒に日本に帰れることを目標に頑張ろうと思った。化学教室への日参、蔑む様な皆の視線そして迎えた2回目の試験は57点で60点の合格には届かず。日参は続く3回目はクリスマス直前で87点やっと合格点。 秋の学期は合格点とならずsenior privilegeを剥奪され空き時間は図書室で勉強となる。 

 Ski Jackson Hole1

勉強は大変であったが楽しいこともあった。 サッカーはレギュラー後発Bチームに選ばれてMinnesota Independent School Leagueで戦った。優勝は逃したのでスクールレターのBは一つしか貰えなかった。 体が小さかったので敵をごまかせたのかシーズンで2ゴールを決めた。試合では相手が「あのチビをマークせよ」と言っていた。ミネアポリスのAFS生の集まりでコロンビアからのMariaと知り合って仲良くなり帰国まで付き合った。 冬休みはコロラド州のVailにある別荘に連れて行ってもらい生まれて初めてスキーというものを2週間ほど楽しんだ。 年明けにミネアポリスの戻ると待っていたのは父の死去の知らせであった。 悲しみの中登校したが校長が全校生徒に説明をしてくれていて皆が励ましてくれた。 この少し前頃から化学の授業は無機から有機に移っており化学の歴史や無機の難しい話ではなく比較的理解し易かった。 そして迎えた冬の学期最初の化学のテストは要領もつかめてきて良く出来たと思った。 翌日発表があり僕一人だけが100点の満点であった。先生がみなの前で発表したので全員に知れ渡ることとなりそれまでの見下したような態度や視線は一様に尊敬と絶賛に変わり一変した。 実績を認める人達なのだとこれを糧に今後の人生に生かそうと心に刻んだ。

対外活動が許可されAFSウィークエンドとしてスペリオル湖の南端にDuluthという町の高校に呼ばれた時の忘れられない思い出がある。6名ほどのAFS生が各々の国の紹介をした後質問の時間になった。 講堂には700人以上の生徒がいたが一人の男子生徒が立ち上がり、 そこの日本から来た生徒に質問がありますと言って。 「あなたはパールハーバーについてどう思うか?」と質問をしてきた。 会場の生徒も舞台で隣に座っていた他国からの留学生も一様にUpsetした言葉ともため息とも取れる様子であったが。 この時戦争の開始の理由を言っても仕方が無いと思い。AFSの趣旨にしたがって「人間はミスを犯す動物でそのように生まれてきたと思います。 でも過去から学ぶことはあっても過去の出来事を責めるのではなく私達若者は未来をみて過去の不幸が繰り返し起きないように努力することがもっと大切であると思います。 今日私達はそれぞれの国からその目的の為ここに集まっています。」と答えたところ会場は満場の拍手となり質問をした生徒はバツがわるそうであった。 よく思いついて言ったものだと我ながら感心。 3日間の滞在であったが大変歓迎されたことを覚えている。

邪魔者扱いされていた弟には努めて話を聞いてあげ時間がある時は一緒に遊んであげて彼の友達とも付き合ってあげた。 冬にVailで兄弟が再開した時少し弟も成長していたようで姉から僕の協力のお陰だと感謝された。 母からも感謝の言葉をもらって少しは恩返しが出来たかと気持を良くしたものであった。 でも彼の友達のお母さんから同様のコメントをもらったときはさすがに驚いた。 

Deaprt Minneapolis 1969,6,28a

ミネソタを離れる日は母と弟が見送りに来てくれた。 ミネアポリスからは2台のバスが出て残念であったが彼女とは異なるバストリとなり、AFS本部に変更の願いを出すも冷たく却下された。 それでもバストリを楽しむべく割り切って参加した。 最初のストップはウィスコンシンの西のはずれで農家に泊めてもらったなぜかホストファミリーは女の子の家が多く僕の場合は一軒を除いて全て女性のホストであった。 毎晩パーティでお酒こそ無かったがかなり騒いでいたと思う。 ニューヨーク州のOwegoでは数日間お医者さんのホストファミリーで結構裕福な生活をしていてプールもあり大いに楽しんだ。 知り合いになった友達とは写真と住所を交換した。 日本に帰ってからも暫らく文通が続いた友もいた。  ワシントンDCで彼女と再会したあと一日を一緒に過ごし最後の別れとなった。

日本に帰国

日本に帰ると父は写真の中にいた。 やはり現実であった。 新幹線の中で母から話を聞いたが家に帰るまでは信じたくなかったことは事実であった。 卒業式は一人遅れて卒業することもあり中学から数えると5年半一緒に寝食を共にした同級生がいなかったのは本当に寂しい限りであった。 

初めての海外出張でインドネシア領ボルネオのカリマンタンでベクテル社と交渉時も正当と思われる主張を物怖じせずに押し通して成功して大きな会社の利益につながったこと。 全てはAFS留学時代の経験と受けた教育の成果と思います。 その後世界何十カ国とビジネスをすることになったが常に18歳の時に受けた強烈な体験がそのバックボーンなっている。

ただ邪魔するものは蹴散らすと言うような行動も若気の至りであったと思われ、成功している時は良かったが失敗すると皆から総攻撃を受け大変な思いもした。 この点でこの悪い気質、癖を改善する一役を買ってくれたのが私の妻であり。 現在の私のチャレンジは今も続いている。

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