Welcome to AFS YP15

小松 基二

小松 基二

小松基二

Viewmont High School, Bountiful, Utah

1.AFSとの出会い
 高1の夏、先輩がアメリカから1年の留学を終えて戻ってこられ、体育館で全校生に体験談を話された。それで高校生でもアメリカに行けるということを知り、その秋2年生であった先輩とAFSの選考試験を受けた。もちろん私はダメだったが、先輩が二次、三次試験とすすみ東京での面接を終え、マサチューセッツ州、フェアヘイブンに行くことが決まった。あの先輩(現在は東京外国語大学教授で、失礼な言い方に聞こえますが)が行けるのだったら自分も1年頑張れば行けるのではと思い、ESSでの英会話の練習に励んだ。
 高2の秋、再度AFS選考試験を受験、そして東京での面接。今も忘れられない質疑応答。
Which is larger, Canada or China? Chinaと答えて後ろで笑われた。そして、
What is California? と質問すると What is California like? と訂正されたこと。
こんなことでよくまあ合格出来たものだとあとで思った。
 ところがホームステイ先が決まらず、5月の末ぐらいだったか、ようやくユタ州のソルトレイク近郊に住む家庭だと知らされた。ホストファミリーに手紙を書いたが返事はもらえず、不安なまま磐梯山青年の家でオリエンテーションを受ける。サンフランシスコで飛行機を降り、スタンフォード大学へ向かう。そこで何をしたのか記憶が全くなし。ただニュージーランド出身のAFS生と偶然知り合い、同じユタ州、ソルトレイクに飛んだことだけ覚えている。

2.Host Family & Host School
 ソルトレイクの空港で飛行機から降りたとき、初めてホストファミリーと出会う。そのときも確か同い年のホストブラザーはアルバイトをしていて来ていなかった(帰るときもそうであった)。彼は私を家族に迎え入れることに対してどう思っていたのか聞いていなかったが、あまり積極的ではなかったのだろうとあとになって思った。
 ホストペアレンツはとてもいい人たちで、モルモン教徒はカフェインの入った飲み物、炭酸飲料は飲まないが、日本人はお茶を飲むだろうと言っていつも紅茶を入れてアイスティーにしていっしょに飲んでくださっていた。ホストファーザーはノース・ソルト・レイク市の助役、といっても人口が1,000人足らずの小さな町なのでか、あるいはスローライフを楽しむためか、比較的時間には余裕があったと思われる。息子(私のホストブラザー)のボールゲームにはたいてい夫婦で応援に行っていた。もちろん私もいっしょに連れて行ってもらっていた。ホストマザーは隣の高校の食堂で働いておられ、いつも忙しそうに思われた。
 ホストブラザーは野球、フットボール、バスケットボールと当時のアメリカの高校生の花形選手であった。私がAFS関係であちこち招待されて、ホストブラザーと出かけたが彼はあまり他の学校の高校生やAFS生とは話をしていなかったと思う。そのうち私だけが出かけるということが多々あり、ホストブラザーは自分がその場での中心人物でないような集まりには出たがらないのだと思うようになった。
小松1 

Viewmont High School の前景
そんな頃、学校に残り図書館で本を読んで過ごし、スクールバスもなくなった時間、帰る手段がなく、ホストマザーは仕事で忙しいだろうと思い、チャプタープレジデントに電話をして家まで送って頂いた。チャプタープレジデントはいつも私たち4人(私と同じ学校にいたホンジュラス出身のAFS生、隣の高校にいたブラジル、ニュージーランド出身のAFS生)のことを気遣ってくださっていて、特に私がチャプタープレジデントをわずらわせたのではないかと思う。チャプタープレジデントは私とホストブラザーがうまくいっていないことをご存じで、ホストファミリーを代わりたいかどうか尋ねてくださった。代わりたいなら近所の私の友人宅に代わるようにしてあげるとおっしゃり、さらにアメリカに私が来たのは我慢するためではなくて、楽しむために来ているのだと言ってくださった。30分ぐらい彼女の車の中で話をし、車を降りて家に入るとホストマザーは帰宅していて、「なぜチャプタープレジデントに家まで送って頂いたのか」と聞かれた。「お母さんが忙しいだろうと思ったから」と答えると、「あなたは私たちの家族なのだから、まず私に電話をしなさい。学校に迎えに行くことぐらいすぐにできることですよ」と言われ、またホストファーザーも私がホストブラザーと話が合わず、ホストファミリーを代わりたいならそれもいいことだと言われ、ホストペアレンツもチャプタープレジデントと同じように、私にアメリカでの生活を楽しんで欲しいと言われ、私は涙を流しここでいっしょに暮らしていたいと答えた(当時は6ヶ月もお世話になりながら、近所の別の家族へというのは裏切り行為に思えた)。余談になるが、94年に高校生を引率し4週間滞在したときは2週間でホストファミリーを代えてもらった。
 学校に関しては8月末に授業科目の登録をするということで学校に行った。American Problems、English、speechは必修で、あと3科目選択するよう言われた。それまでにホンジュラス出身のAFS生からスペイン語を少し教わっていたのでスペイン語の授業を選択しようと思ったが、ホストブラザーから英語が外国語なのにスペイン語まで勉強するのはどうか、と言われ断念した。また数学が好きだったので一番上級の数学をとろうとしたら、やはりホストブラザーからそれは難しいからやめておけと言われ、2番目のCollege Algebraを選択した。あと選択した科目は日本ではできないTypingとComputer Scienceだった。この6科目を毎週月曜日から金曜日まで勉強した。
 数学の授業ではホストブラザーの意見とは全く違い、日本での高1~高2ぐらいの内容で易しすぎて後悔した。ただ数学の先生から「君の解き方はすばらしいから前に出てみんなに説明してくれ」と言われたときは、英語でうまく説明出来ず、解法の手順を式でていねいに板書して何とか終えた。

V

学校裏の駐車場での高3生の集合写真
 Speechの授業では様々な場面でのスピーチについて教わり、実際に前で話したが、あるときの課題が「What I hate most」というもので、他の生徒はあの食べ物が嫌いとか、わがままな弟が嫌いだというスピーチをしている中、私は「日本で友達が受験勉強で苦しんでいるが、自分だけそんな生活から逃げ出しアメリカで楽しい毎日を過ごしている、こんな自分が嫌いだ」というようなスピーチをした。するとその後の先生やクラスの友人の私を見る目が変わったように思った。自分を大切にし、身内をほめる文化では私の考え方が受け入れられなかったのか、あるいはまた私の英語がつたなく気持ちが十分伝わらなかったのか不明であるが、奇妙な人種だと思われたに違いない。

3.帰国後
 8月下旬に2学期が始まり、予想通り物理、化学がさっぱり分からず、担任の先生に文転させてくださいとお願いに行った。「それは無理だから私の授業では何をしてもかまいませんよ」と言われたので、担任の化学の授業中は世界史を必死で復習していた。数学の次に好きな科目が英語であったが、当時は生意気にも英語はもう十分勉強したと思っていた。クラスメートが「赤尾の豆単」から私にいろいろ聞いてきたがすべて答えると「さすがアメリカ帰り」と言われ、天狗になっていた。それで英語以外の外国語を考えていて、ホンジュラス出身のAFS生から少し教わったスペイン語を考え始めた。9月からNHK「ラジオスペイン語講座」を聴き始めたが、しているうちにヨーロッパ言語の元となるラテン語やギリシャ語を学びたくなり、現在は建物も名前も消滅してしまった大阪外国語大学でイタリア語を専攻しようと思った。そこでイタリア語から言語学をしたいと思ったが、教授から「君は高校で英語を教える方が向いているでしょう」と言われ、5年目に教職課程をとり大阪府の教員となった。75年4月。
 最初の学校は創立2年目の新設高校で、前年高3相手に教育実習したことが全く役に立たない現場であった。そこで4年が過ぎようとしていた頃、母校から「学級増のため英語教員が必要だ、おまえ来る気はあるか」と教頭になられていた数学担当で私が尊敬していた恩師からお誘いを受け、喜んで転勤した。79年4月である。
 アメリカにいた頃、ある高校を訪問し、そこのフランス語中級の授業を見学させて頂いたが、先生も生徒もフランス語しか話さない授業だった。それを思い出し、母校に移ったのを機に英語の授業を英語でしようと思い立った。恩師が大勢いるところで私は好きなように授業をさせて頂いた。教科書の調査、スローラーナーの研究など府教委の仕事を手伝い始め、府立高校の入試問題作成委員にもなった。そんなお陰か88年度には文部省主催で「筑波プリズン」とも呼ばれる、起きてから寝るまで英語付けの「英語指導者養成講座」で1ヶ月を過ごし、帰阪してすぐに私にとって最後の府立高校となる住吉に転勤となった。そこでは翌年90年度から「国際教養科」という学科が開設されることになり、AET(Assistant English Teacher)を3名常駐する学校となった。英語教員としては喜ぶべき学校になり私は英語を毎日話せることで楽しい日々を過ごした。そんな環境にいる間、90年には文部省主催の「海外短期派遣」でイギリスに2ヶ月滞在し、エセックス大学で「英語教育」に関する講義を受ける機会を得た。94年夏には関西地区の高校生15名を引率し、ロサンゼルス郊外で4週間過ごしたり、96年から始まった住吉高校の「オーストラリア語学研修」で97年、2000年と生徒を引率してダーウィンでホームステイをした。2004年、住吉では15年続いた「国際教養科」も終止符を打つこととなり、2005年に新しく「総合科学科」と「国際文化科」をもつ学校に生まれ変わった。年度末に実施された「国際文化科」3クラスの「英語合宿」を最後に現在の奈良学園に移ってきた。ここでも大阪府と同じく60歳で退職。現在は常勤講師として勤務する毎日である。
 最後に現在の奈良学園の理事長が元奈良県の教育長であったとは聞いていたが、なんとAFSYP15期生の吉川さんの高校の恩師であることが判明し、親しく声をかけて頂いた。

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional