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山田和子

山田和子

山田和子

Guilford High School
Rockford, Illinois

ポッと出のAFS生

ことの始まり
1967年10月10日体育の日。学校は休みだったが、私はいつものようにお弁当を持って、学校に向かった。AFS15期の北関東地区の第一次試験が母校で行われるからだった。
その年の4月に高校に入学した当時の私はAFSことなど 全く知らなかった。しかし7月に入って、AFSサマープログラム生が来校し、一学期の終業式には3年生が、それも小学校の同級生のお姉さんがAFSでアメリカに留学するということで全校生に挨拶をしたことで、俄然AFSが身近なものになったのだった。9月に入り、AFSの募集が張り出された時、それも試験は自分たちの高校で行われると知った時、私は迷わず受験しようと思った。英語は学校の授業で習うのみ、しゃべったこともなかったので受かることなど期待もせず、保護者の渡米承諾書(誰も真面目に受け止めていなかった)と共にのんきに、でもやはりほんの少しの期待をもって受験願書を提出したのだった。
それなのに何のはずみか受かってしまった。こんなにはずみとしか思えないきっかけでAFS生になったのに、AFSの一年間は私という人間に大きな影響を与えた。AFSの一年がなければ私は今とは全く違う人間だっただろう。運命といえば大げさといわれるかもしれないが、この運命というか偶然には感謝してもしきれない。

私と英語
中学生になり初めて英語を学ぶことになった時、わくわくした。私にとって全く未知の学科だったし、英語で一体何ができるようになるのだろうという期待があった。しかしまもなくその期待はしぼんだ。I have a book. This is Tom. こんな文章には全く馴染めなかった。外国人に会って突然「本を持っています。」なんていうシチュエイションは考えられないし、見知らぬ人に「これはトムです。」なんて言うはずない。第一そのあとどうするのだろう。こんなに唐突な脈絡のない文章ばかり習って、一体いつ普通に言いたいことがいえるのか、ゴールは永遠にこないような気がした。興味は徐々に薄れていった。
そういう中で英語が身近に感じられるようになったのは、外国ポップスのおかげだった。中学生になってまもなく何らかのきっかけでビートルズを知り、好きになり、ほかの歌手の音楽もきくようになった。レコードについてくる歌詞カードを見てその意味を調べながら聞くことによって、英語で気持ちを表現する人たちがいるということがリアルになってきた。しかしそれでも私はいいたいことはまだ何も表現できない。
そんな中で高校一年の7月AFSサマープログラム生の「ボニーさん」が母校にやってきた。英会話クラブに所属しているわけでもなかった私は、遠くで彼女をみるだけだったが、一度だけ彼女が英語の授業の折にクラスにやってきたことがある。彼女を紹介した後、先生が、何か質問があったらしなさい、という。50人のクラスはシーンとする。私は何かきけないかと一生懸命考え、唐突かと思ったが習ったたばかりの現在完了形の例文で、ロスアンジェルス出身の彼女に、ドキドキしながらHave you ever been to Hollywood? ときいたのだった。 すると彼女は何でもないように、Yes、と答えた。これは私には衝撃だった。それまで自分の勉強している英語の無力さばかり感じていたのに分かってもらえるではないか!高校生でもアメリカに行けるのなら、是非行ってみたいと思うようになった一番のきっかけである。

アメリカは大きい!
ニューヨークのホフストラ大学でのオリエンテーションを終え、グレイハウンドバスに乗ってシカゴについたのは早朝だった。ホストファミリーが出迎えてくれた。私が滞在する予定の町ロックフォード はそこから北西におよそ130km行ったところにあった。周りは見渡すかぎりとうもろこし畑。空がやたらに大きく見えた。私の高校は在校生2,000人のまだ創立5年のギルフォード・ハイ・スクール。校舎は町が終わったはずれにあった。2,000人の生徒がいる学校だから校舎も大きい。長~い校舎が3棟、見渡す限りの広々とした土地にへばりつくように広がっていた。その脇にはこれまた見渡すかぎりのだだっ広い生徒用の!駐車場があった。遠くにはスタジアムのような階段状の見物席がみえたが、とにかく広くて大きくて学校の敷地がどこまでなのか在校中一度もみることはなかった。
ホストファミリーの家に着くと、家の軒に「Welcome Kaz!」のサイン。日本を出て以来何時間も飛行機にのったり、バスにのったり、途中オリエンテーションがあったりと長い道のりだったが、ようやく着いた、という気がした。

家族
私のホストファミリーは両親共ドイツ系2世のセリン家。両親と3人姉妹の5人家族だった。カリフォルニアからロックフォードに引っ越ししてきて3年目、同じ高校に通うことになっている一歳下のキャンディーが学校にもっとなじめるよう、AFS留学生を受け入れることにしたらしい。父は機械部品会社勤めで、働き者。のちにその会社の社長にもなり、大学は出ていないが成功したというのが自慢だった。日本との取引も多くあったので、何度も出張で日本にきた。身体の大きな人で、声も大きく、少しこわかった。母はアメリカのホーム・ドラマにでてきそうな典型的な中流のアメリカン・ママ。ランチ、ブリッジ、ゴルフで遊んでいたと思うと、水色のエプロンをして病院のボランティアに出かけて行った。筆まめで、筆不精の私が日本へ帰国後もホストファミリーと連絡を保っていられたのも母のおかげだ。アメリカに行った当初英語の分からない私に、いつも大きな口をあけ、大きな声で、ゆっくりしゃべってくれた。1年たってもそのままだったのにはちょっと閉口したけど。
兄弟は3人姉妹。一番上のサンディーは大学に行って家にはいなかった。私は、真ん中のキャンディーと学校に通った。一番下のシンディーはまだほんの10歳だった。セリン家の3姉妹は年齢がそれぞれ5-6歳離れており、家族が段々裕福になっていくのと相まって、アメリカの女性の歴史的変化の縮図のようでもある。1947年生まれのサンディーは大学を出た後、看護婦と並んで当時の女性の decent な職業とされた教師になり、1952年生まれのキャンディーはひたすらキャリアを追求し、働きながら修士号、博士号を取得、キャリアアップしていく一方、家庭も持ち、現在3回目の結婚で父親の違う息子達3人を育てた。一番下のシンディーは家も裕福になっていたのだろう、体操を習い、動物好きが高じてで乗馬を習い、後に馬も持った。「お金を稼ぐのはDad とキャンディーに任せるわ」と、獣医になった。獣医になったのち、婚約者とアメリカ中を車で走って、気にいった現在の場所に2人で開業したそうだ。

学校
ロックフォードという町はスウェーデン系の住民が多く、私の通ったギルフォード・ハイ・スクールのマスコットもそのせいか、Vikings, 学校新聞もVikings、イヤーブックの名前は北欧神話で英雄のあつまるところというValhallaだった。全校生徒2,000人は殆ど白人、それ以外は黒人が兄弟で2人、中国系が1人、それ以外は私を除いてアジア人もヒスパニックも1人もいなかった。皆がギルフォードには黒人が2人しかいないんだ、と自慢げに言うのがなんだか居心地がわるかった。

勉強
学校ではSeniorになったが、せっかくアメリカに来たのだからとJunior必修のアメリカ史とアメリカ文学をとるように言われた。さらに卒業したければとSenior必修のアメリカ政治・経済をとり、そのほかにスピーチ・タイピング、PEをとった。英語の力が不十分だったので勉強は本当に大変だった。アメリカ史の教科書はA4判ほどもある大判で、それを一度に何十ページも読んでいくのが宿題だ。そして翌日それについて小テストをし、ディスカッションをする。読んだ分をまとめていかねばならない日もある。夜遅くまで頑張っても課題を全て読み、理解するのは難しかった。アメリカ史の白髪のMiss Petersは留学生だと容赦することはなく、「なんでちゃんとやってこない」とよくしかられた。それだけに学年の最後にアメリカの企業家を選んでリポートを書くという課題が出た時、私の「ジョン・D・ロックフェラー」についてのリポートを皆の前でとてもほめてくれた時はうれしかった。アメリカでの勉強は、例えばアメリカ文学では日本のように教科書で抜粋を読むのではなく1冊まるまる作品を読み、それについて話し合ったり、経済の授業では実際にクラスで相談して株式を買うなど、大人になったような気がしてとても楽しかった。

遊ぶ
私の家族は私が夜遅くまで宿題と格闘していると、アメリカには勉強しにきたわけではない、いろいろな経験をするためにきたのだからと言ったものだ。そんなこといわれなくても、もちろん週末は大いに遊んだ。
学校が始まってすぐの週末、友達の新しいボーイフレンドの家にTPに行くという。TPとはご存じの方も多いと思うが、トイレットペーパーを庭の木に巻きつけるいたずらである。夜中に雨が降るとペーパーが溶けて取り除きにくくなるので益々いいという迷惑ないたずらである。何度も行ったなかで、今でもひやりとするのは、行った先の隣家の男性に銃を向けられた時である。皆で大あやまりで一目散に逃げて事なきを得たが、後のAFS生の痛ましい事故のニュースを聞いた時は本当に心が痛んだ。女の子のパーティーで面白かったのは”Come as you are”パーティーである。休日の朝早く、パーティーの主催者が不意打ちで友達の家に行き、着の身着のままの姿で車にのせて家に連れてくるのである。頭にカーラーをつけたままだったり、ぼろぼろのパジャマ姿で最初は寝ぼけ眼だった皆がやがてオレンジ・ジュースとドーナツで目をさましいつものようにきゃあきゃあおしゃべりをし、たのしく過ごした後また家へと送り届けるものである。アメリカ人は楽しむのが本当に上手だった。

アメリカは厳しい
学校生活で思ったのはアメリカは強い者、或いはできる者の国だということだ。例えばスポーツ。日本のようにクラブ制ではないので、シーズン前のトライアルで選手が決まる。だから運動神経なのか器用さなのか、計算上はJunior、Seniorで男子500人ぐらいはいるはずなのに、シーズンスポーツが変わるごとに同じような人たちがプレーしていた。いろいろなスポーツに出る人は出る、出ない人は殆ど出ていなかった。学校新聞も同様である。学校新聞はJuniorのジャーナリズムのクラスが編集するのだが、そのクラスをとるには、前の年の英語の成績がよくなくてはだめということだった。
前述のたった一人の中国人女子生徒はSophomoreだったがゴルフが上手で、学校の代表としても活躍していたので、アジア人ではあったが一目おかれていたようである。ついでながら札幌オリンピックのフィギュアスケートで人気を博したジャネット・リンも同じ学校のSophomoreで、当時史上最年少の北米チャンピオンだったので、彼女自身はおとなしくて控え目な人ではあったが、とても”popular”であった。

AFSクラブ

AFSクラブ山田和子

AFS生
私のいたロックフォードの町には高校が4校あり、AFS生が6人いた。日本、キプロス、スペイン、南アフリカ、ホンジュラス、フランスからきた私たち6人は何かと顔を合わせる機会も多く仲良くなった。
アメリカ生活の最後には、この同じ町にいたAFS生の他に世界中からきた他のAFS生と約一カ月間一緒にワシントンDCに向けてバス旅行をした。何かあればすぐ歌い、踊る中南米のAFS生など、それぞれのお国柄を覗かせる彼らを見て「世界」がとても近く見えるように思った。キプロスのニックは自己紹介の際必ず”Nick, the Greek”と必ずギリシャ人であることを明らかにしたし、ウガンダのイマニュエルはどこぞの部族の王子様で、嘘かまことか身辺の警護が必要であるとか、一番の仲良しだったボリヴィアのエイミーは国に帰ったらこういう生活はもうできないから、と母国の住所を決して教えてくれなかった。

その後
今思い返すに、日本に戻って大学の社会学部に入ったのは、アメリカの授業で政治や経済を少しだけ学び、他のAFS生たちの様々な事情を断片的に見聞きし、世界を少しだけのぞいたような気がして漠然ともっと社会や世界が知りたくなったせいだったのだと思う。残念なのはこの漠とした関心を何らかのテーマに収斂させることができなかったため、それを具体的な職業に結び付けることができなかったことである。卒業後は普通に企業に就職し、それでも道を模索していたが、その後夫の転勤で3~5年毎に日本と海外を行ったり来たりするようになり、すっかり自分の生活に埋没してしまった。しかし見知らぬ土地に何年か毎に身を置き、そこに適応することができたのは、あの1968―69年にかけての、毎日のように新しいことに出合い、驚き、戸惑い、悩み、奮闘した日々なくしてはできなかったのではないかと思う。それらを乗り越えた後には必ず大きな喜びがあったことを覚えているから。

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