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幾島幸子

幾島幸子

幾島幸子

Newport Harbor High School
Newport Beach, CA

 あれから40数年の月日が流れ、帰国後の人生のほうがそれ以前の2倍半にもなる今でも、ふと目を閉じれば留学中の数えきれないほどの瞬間がありありと思い出され(もちろん忘れてしまったことも多いけれど)、なにやら甘酸っぱいものが込み上げてくる。あの1年がなかったら今ごろ私はどんな人間になり、何をしていたのだろう。

                * * *
アメリカでの1年

 私が滞在したのはカリフォルニア州南部、ロサンゼルスから1時間ほど南へ下ったところにある海岸沿いのNewport Beachという町。外海に面してちょうど防波堤のように細長いpeninsulaが突き出し、その内陸側の小さな湾に浮かぶLidoという島にRosener家はあった。島には瀟洒な住宅が建ち並び、なかにはハリウッドスターの家もあったりして、まさに絵に描いたような高級住宅地。でも私にとって強烈だったのは何より、燦々と照りつける太陽とカリフォルニア・ブルーの空、それに映えるマリーナに浮かぶヨットのマストとヤシの木という、どこまでも明るい風景だった。それが私にとっての「アメリカ」の原風景である。
 Rosener家はCaltech出身で経営コンサルタントの父親Joeと専業主婦(当時)の母親Judy、2歳年下の妹Lynn、4歳年下の弟Doug、6歳年下の妹Janetの5人家族。ユダヤ系だが、クリスマスの代わりにハヌカを祝う以外には宗教的な慣習とは無縁で、もちろんシナゴーグにも行かない。両親は政治的にはきわめてリベラルで、渡米直前に暗殺されたロバート・ケネディの熱烈な支持者だった。議論好きの家族、とは聞いていたけれど、政治について議論することがない日はないほどで、あまりに早口でまくしたてるので最後まで完全には理解できなかった。
 ホストペアレンツは実に仲がよく、政治の議論のみならずなんでも徹底して話し合っていた。温厚で大柄なDadはまるで熊みたいで、みんなが私のことを「サチ」と呼ぶのに「サッチャン」と呼んでいた。Momはとにかく話好き。スーパーに一緒に買い物に行っても、必ず誰か知り合いと出会って立ち話を始めると止まらない。最初にロサンゼルス空港で出迎えてくれたときも、家まで帰る道中ずっと助手席から体をひねって私に話し続けていたことが忘れられない。
 MomはUCLA出身だったが、大学には「結婚相手を見つけに」行き、専攻は女の子だから「社会学」だったのよと笑っていた。日本の母と同じ1929年生まれで、50年代の典型的な主婦として3児の母となったのだが、彼女の本領は家事や育児には発揮されず、やがて大変身を遂げる。30代後半で大学院に復学、私が滞在する前の年に修士号を取ったところだった。その後50歳で博士号を取得し、53歳でカリフォルニア大学アーバイン校の政治学教授に就任。つい数年前に退職するまで教鞭をとっていた。また、ジェンダーと企業における女性の能力活用という彼女の研究テーマが90年代のアメリカ企業の要請にうまく合致したこともあり、全米各地での講演やメディアへの登場など、大学以外の場でも大活躍し、賞もいくつも受賞するという輝かしいキャリアの持ち主だ。私がまがりなりにもずっと仕事を続けてきたのは、このMomの影響が少なからずある。95年に出版された彼女の著書をぜひ翻訳したいと思ってあちこちの出版社にかけあったのだが、ついに実現に至らなかったのは(「日本企業は不況にあえいでいて、女性の能力活用なんて考える余裕はない[から、こんな本は売れない]」というのが理由だった)、返す返すも残念でならない。

着いてすぐの地元紙の記事:写真は妹Lynnと

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 同室で1年を過ごした妹Lynnは勉強もスポーツもできる、ちょっぴりシャイな優等生で(でも家では全然勉強せず、いつもベッドに寝そべって自分専用のテレビで映画を見ていた)、私が想像していたような典型的なアメリカの高校生とはちょっと違っていたが、とても気が合った。英語がしゃべれるようになるに従い、どんなことでも話せる間柄になり、それは今も変わらない。Dougは繊細でユーモアのある多感な高校1年生で、言葉に興味があり、よく私のコンサイス和英辞典をパラパラめくっては、いろんな日本語の単語を声に出して言って私を笑わせた。今はIT関連のエンジニアだが、言語への興味は相変わらずで、仕事で翻訳していてわからない英語にぶつかるといつも助けてもらっている。Janetはおしゃまでファッションと食べることが大好き。私の持ってきた日本の服にも興味津々だった。彼女は今でもすごくおしゃれで、シェフになってケイタリングの会社を立ち上げたこともあるが、なんと10年ぐらい前にアーティストに転身、今はわびさび(!)をテーマにした抽象画を描いている。
ひとことで言えば、家庭の雰囲気も南カリフォルニアの風土もとにかく自由で開放的、着いた翌日にNewport Pop Festivalというロックフェスティバルに連れて行かれて早々にその「洗礼」を受けた私は、すぐにその空気に馴染んだ。元来弱虫で気が小さく、親や周囲の期待に応えて行動する「いい子」タイプだった私に、この環境の変化は実によく「効いた」。周りがどう思おうと、「あなたはどうなの?」ということが一番大切で、親だからといって意見は言うが、決してそれを強制することはない。一人ひとりの個性と自主性がほんとうに尊重されているということを痛感した。我を押し通すのではなく、いい意味での自己主張をきちんとすること。これはアメリカ留学で学んだ貴重なことのひとつだ。

学校生活も楽しかった。Newport Harbor High Schoolは生徒数2500人の大きな学校だったが、周辺の人口構成を反映して生徒のほとんどが白人。黒人はゼロでヒスパニック系が少しいるほかは、日系人も数えるほどだった。タイピングやPE、合唱などのクラスが毎日あるのはラクチンで楽しかったのにひきかえ、アメリカ史や公民は苦労のしっぱなしで、レベルの低いクラスに変えてもらったりもした。ただ英語だけは、なぜかシニアの一番むずかしいクラスに入れられ、途中で音を上げそうにもなったが、なんとか最後まで踏ん張った。『ハムレット』や『罪と罰』を読まされ(とても読めなかった私は日本から文庫本を送ってもらった)、毎回クラスでは生徒が活発なディスカッションを繰り広げる。青い瞳と低い声が魅力的だったUlander先生の鋭いコメントに、生徒たちが臆せず自分の意見を発表するのに舌を巻き、日本の授業との違いにため息をついたものだった。
 家族と行ったコロラド州アスペンへのスキー旅行、メキシコ旅行、近隣の高校に留学している他のAFS生たちとの月1回の交流、ダンスパーティー、20回近くこなしたスピーチ、卒業式とプロムとその後、卒業生たちと夜通し遊んだディズニーランド……アメリカ生活に慣れるにしたがって時間は加速度的に早く過ぎていった。そして家族と涙が涸れるほど大泣きして別れたあと2週間の大陸横断バストリップ(これにもいろんなドラマがあった)をへて日本に帰ったあとも、夏休み中はほとんど心ここにあらずのような状態でボーッとしていた。それでも9月に日本の学校が始まると、お尻を叩かれるようにしてようやく受験生としての現実に戻ったのだった。

その後

2009年秋:Newport Beachにて両親と

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 学生結婚し、卒業してすぐ子どもを産んで子育てと仕事に追われていた私が帰国後初めてアメリカに渡ったのは11年後の1980年、妹Lynnの結婚式に参列するためだった。10年以上のブランクがあいたのはこのときだけで、以後はほぼ数年に1回、多いときは毎年のように太平洋を越えて家族と交流している。こちらがカリフォルニアに行ったことが7回ほど(両親は今もNewport Beachの家で暮らし、Lynnの一家は州北部、Apple本社のあるCupertinoに住んでいる)、あとはちょうど中間のハワイで合流したことも何度もある。
 1985年の夏、ハワイ・マウイ島で最初にLynnと弟Dougそれぞれのカップルと過ごしたときのこと、小4の長男と2歳の次男を連れて行ったのだが、冗談半分に長男をホームステイさせてもいいかとLynnに聞くと、OKという返事。それが3年後には本当になった。意地でも親に言われてアメリカなんかに行きたくないと言い張っていた長男が、小6になって地元の中学入学が現実になってくると、「あんな制服着たくない。アメリカに行く」と突然言い出したのだ。結局彼は中1の夏から丸2年間、Lynnとその夫Earlの家にお世話になり、向こうの中学を卒業した。まさに2代にわたるホームステイである。

2010年春:息子の結婚式に出るために来日したLynn夫妻と

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昨年、その長男が結婚したときにはLynnとEarl夫妻が来日し、式にも参列してくれた。Lynnはそれまでにも3回(うち2回は息子2人も連れて)日本に来ている大の日本びいき。両親、Dougもそれぞれ1回ずつ来日しているが、「わびさび」画家の妹Janetだけはまだそのチャンスがない。

 今年、2011年7月には両親の結婚60周年のお祝いでハワイ島に行ってきた。私が行くことは両親には秘密だったのだが、目を丸くてして驚き、そして心から喜んでくれた。Dadは87歳になり脚はだいぶ弱ったけれど、頭はまだまだしっかりしている。ハワイでの最後の晩、子どもたちから両親にプレゼントを渡した席で私もささやかな贈り物を手渡したあと、あらためて感謝の意を込め、“Thank you for accepting me as a member of your famly.”と言うと、Dadが満面の笑みを浮かべてこう言った。“That was the easiest thing to do!”

 これまでの人生をふり返れば、親の反対を押し切っての学生結婚、子ども2人を抱えての離婚、収入の不安定なフリーの翻訳者として働きながらのシングルマザー時代、その後新しいパートナーとの暮らしへ……と、客観的にみればけっこう波乱の人生だったのかもしれない。でもすべては自分が選んだことであり、悔いはまったくない。そして自分の選択に忠実に生きてきた、その原点にあるのは、あのアメリカ留学の1年だ。英語を使って仕事ができるのも、あの1年、英語を体で覚えた体験があってこそ。そう思うと、自分の人生を形づくったのはAFSだといっても過言ではないという気もしてくる。
AFSという終わりのない旅は、きっとこれからもずっと続いていくのだろう。

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