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松浦由紀子

松浦由紀子

松浦由紀子

Camp Hill High School
Camp Hill, Pa.    

アメリカ生活の始まり
   ニューヨークでのワンクッション生活を終え、私達はバスに乗り東へと向かいました。  「なのに何故君はいくのか そんなにしてまで」と歌ったりしていたのが、だんだん無口になった二時間後、最初のstop Harrisburgに着きました。合衆国独立時13州の中でもひときわ存在感のあったPennsylvaniaの州都です。バスを降りるとホストファミリーと同級生達がワァーと出迎えてくれ、私は次の地に向かうバスを見送る事も忘れていました。Harrisburgを縦断しているサスケハナ川(1979年スリーマイル島原子力発電所事故で知られる)を渡りまもなく郊外のベッドタウン、Camp Hillに着きました。15度傾斜のエントランスを上がった芝生に囲まれた平屋建てのレンガ壁の家でした。一階と同じ広さの地下室で歓迎会。Dadは音響関係の店をしていて、カナダのフィギュアスケートの曲を編集したりも。Momはドイツ系の家事をぴしっとこなす専業主婦。ダイエーの安物ブラウスも高級品に変えるアイロン技術の持ち主でした。シスターは1才年下の同級生Sueと9才下の小学生Kim.。5枚以上持ってるビキニからその日の気分で一枚を選び、公園プールに行くのがKimの日課。私を乗せ通学するからと水色のBeetleを買ってもらったSueと部屋をshareし、車で出かける夏休みでした。Sueはsenior145人中15人しかいない英語上級クラスにいて、春はField Hockeyの花形選手。友達もチアリーダーやフットボール選手、勉強ができ生徒会活動もしているというような華やかな人ばかりでした。高二首席だったから飛び級で大学に行く生徒の家で初めてのパーティ。着いてみると平屋建ての家は真っ暗。暗闇の中、生垣から潜り込み、地下室に入ると飲んだビールの空き缶でタワー作り中。隣の部屋に行くと数組のカップルが抱き合いキス中。その部屋の隅で私達はおしゃべり。数日後5軒隣から私だけパジャマパーティに誘われ行ってみると、地味目の女の子ばかり5~6人。アメリカにも普通の高校生いるんだとほっとしました。あくる日の早朝 歩いて大きな道路に面するMrドーナツに行く時、分離帯部分を1メートル間隔の一列に並び 大きく手を振り大股で歩きました。朝日を浴び、映画の主人公になったような気分で、やっぱりアメリカに今いるんだ!と思いました。

高校生活の前半
一学期が始まりました。驚いたのは管理上5分前にしか校舎に入れない事。飲酒して手がつけられないのでワシントンDCへの修学旅行が中止になった学校だから仕方がなかったのでしょう。下級生は校舎周りの道路、seniorだけは駄菓子兼文房具屋で待ってる特権がありました。次の授業に遅れる時は教師の証明書が必要というのも、sophomoreのスピーチやjuniorの代数をとり、1人教室移動の多い私は困りました。体操の着替えやシャワーの時、同性の前では裸になるのが平気なのも軽いショックでした。科目はjuniorの歴史はやめ、senior必須の政治にしました。歴史を交え新聞も使った憲法や政治の学習で、Federal Governmentと州が限りなく対等のアメリカ流民主主義を深く学んだ気がします。自分達で作り上げてきた憲法にAmendment(修正事項)があるのが当然なんですよね。おりしも大統領選挙の年で、習った事がliveでテレビ中継されるのですから、生意気な生徒も熱心に授業参加していました。英語の授業は、軽い文章を読んだ後、マクベスをやりました。知っている話でしたが、べらんめー英語の先生の話ほとんどわからず、本屋で薄いガイドブックを買って来ました。表紙が黄と黒の横縞で、まさしく虎の巻! 登場人物と『山が動いた』にポイント絞り勉強したら、5段階の5がつきました。神戸女学院の国語や社会の時間にやっていた授業を参考に自分の意見をまとめる学習方法が役立ちました。次のJohn Donneは日本の本を送ってもらい勉強するも惨敗。化学はsodiumを「ネトリウム」とつい読んでしまう以外は楽勝。成績1だった友達にテスト前教えてあげたら3になり、卒業できると感謝されました。 

  生活を変えた事件
   ホストシスターとは、ホームルームやコーラスも一緒。登下校も昼ランチを食べに家に帰るのも車に乗せてもらい一緒。日曜おめかししてPresbyterian教会に行くのも その後の外食も一緒。部屋も一緒。 日本で数回LP経験のある今の私から見ると気の毒な事でした。その気晴らしもあってか、時々、人口5千人の白人の町Camp Hillを抜け出し、Harrisburgの黒人に会いに友達と私を車に乗せて行きました。穏やかな黒人男子高校生達と、バスケットゴールのあるコンクリートの公園か家で話すだけでしたが、Momやおばさんと町に入る時、車や窓のロックを確かめてからだったので、少しびくびく。それもスリルがあったのでしょう。絨毯敷きで重厚な家具や装飾品のあるホストファミリーのリビングとは違い、階段を3段上がって入った黒人高校生の家には四角いテーブルと古びた椅子だけ。私は子供の頃、日のあたらない長屋や、焼き出されて一軒の家に4家族で住んでる家にも遊びに行きましたが、あんな殺風景な家は見たことがありません。12月に入ったある晩、Sueの友達Sandyの家でパジャマパーティーがありました。着くとすぐSueが「Readingのボーイフレンドに会ってくる。1時間いるだけで、4~5時間で帰るから心配しないで。」そういう作戦だったのかと、残った友達と遊んでいたら、夜中にMomから「今すぐ帰って来なさい」と電話。訳がわからず、妹も帰って来ず本当に困りました。後から聞いた話はこうでした。旅行で娘達だけになるからと、ご両親がお隣に声をかけていた。11時頃黒人の青年数人が生垣に潜んでいるのに気が付いた隣人は警察に通報した。サイレン鳴らさず来た警察が青年達を補導。彼らは言った。「この女の子達は自分達の町に来て、近くの黒人と友達になったのに自分達はいつも無視され、腹が立った。パーティの事を耳にし、寝静まったら仕返しに襲ってやろうと待っていた。」 SueもSandyも厳しく叱られたのでしょう。それからの私はランチは学校で。Momや私に出来た友達の親が車で送り迎えと生活は一変しました。黄水仙の咲くころからは徒歩通学が許されました。クリスマス前後から、LP等色んな人が家に招待してくれ、私の世界は急に広がり始めました。クリスマスツリーを森に買いに行って、根を付けたまま持って帰り飾りつけ。この話をすると40代以下のアメリカ人は羨ましいと言います。Pennsylvania Dutchの幸福の鳥を皿に彫り、色付け作業をしながらのおしゃべりも楽しかった。それを焼いてもらったceramicは日本への何よりの土産になり 阪神大震災でも無事でした。 おとなしいが賢い日本人との印象付けには成功したけど、このままスピーチをたまにするだけでは留学生として地元の人達に貢献できていないと気が付き、自宅学習は辞め、同期の日本人を見習い、友達作りと付き合いに専念しました。すると更に色々招待されるようになりました。『求めよ、さらば与えられん』アメリカはそういう国でした。

  ベトナム戦争の影
コーラスの授業に早い目に講堂に入ると、いつも溌剌としてミュージカルナンバーやクリスマスソングをモール等で指揮する30代の先生がオルガンの前で泣いてらっしゃった事がありました。御主人がベトナム戦争に従軍されていると聞きました。‘Let There be Peace on Earth’ がテーマ曲だった理由がわかりました。 私はワシントンDCのArlington墓地に春、二度行きました。Kennedyの墓には人がいっぱいでした、でも、私は、丘の芝生に無数に立つ新しいお墓とその前にぽつんと座りこんでいた若い女性2~3人の後ろ姿が目に焼きつき今でも忘れられません。卒業式後、前年度の金髪イケメン留学生(私のつらい立場おわかりでしょう)のホストブラザーやその友達と別荘に招待され 始めて大学生とゆっくり話しました。ベトナム戦争に話が及びました。友達の方は「銃を持ち戦いたくないから、知り合いの牧師のようにjailに行く」と良心的兵役拒否の言葉。ホストブラザーは「愛する母と従妹を守るためなら、戦争に行く」と。私が一年間接してきた青年達の気持ちも同じなのだろうと思いました。当時の日本から見れば信じられない位、物質に恵まれ便利な生活をしている高校生が、時々無表情というか疲れた大人のような表情を浮かべる主な原因はこの葛藤なのだろうと思いました。 最後に友達がお別れパジャマパーティを開いてくれました。 その前に、「Promに行かないParty」に誘ってくれていたのに、見てみたい好奇心に負けた私は行ってしまったからです。 メンバーはほとんどがあの八月の地味な人たち。15度傾斜の芝生にスリーピングバッグを敷き、皆で星空を見上げていました。暴動(riot)が頻発してcurfewが出ていたので、パトロールのパトカーが静かに二回通っただけ。こうして私は暢気でexcitingだったバス旅行に旅立ちました。

  その後
  二年後に戻って来たらアメリカの大学の奨学生になれるとのガイドカウンセラーの話で、すっかりその気になっていたのに、再びアメリカの地に立ったのは33年後の52歳の時でした。ラジオの英語講座はいつも三日ともたず、片耳難聴なのに努力もせず、遊びにすぐ逃げていく私が今も英語が下手ながら話せるのは、AFSと神戸女学院のお陰と感謝しています。大学の英文科の頃、英語を書く力は、ボストン大学からの客員教授に褒めてもらったり、アメリカで哲学博士号をとったゼミの教授に研究者の道を勧められる位には一時なっていたのですが、不器用な私は結婚後、細々と英語家庭教師しながら、三人の子を育て、親の世話をし、夫を手伝うのが精一杯。英語力も落ちる一方です。文部省から出していただいたお金は、父がシベリア抑留で三年ただ働きしたのに免じてもらうとしても、AFSにはご恩返しをしなくてはと、学生時代は関西支部の手伝い、留学生の広島旅行付き添い、子育て時代は面接資料を参考に短期留学生の英語申込書作成もしました。80歳から同居した主人の母が元気な頃は、京都支部のLPや日本語を教えにホスト校に行ったりも10年近くしましたが、中途半端で十分とは言えません。ホストファミリーはDadが十数年前亡くなり、9年前の楽しく充実していた再会から2年後Sue、そして80歳で初めてKimと日本に来てくれたMomが1年半前に亡くなり実家がなくなったみたいで寂しいです。 7月のリユニオンで、色んな世界で元気に(病気をしても精神的には)活躍している同期生に会い、義母との15年間の同居生活ですっかり弱り立ち直れなかった私も、もうしばらく老後なんて言わずに生きていこうという気持ちになりました。まだ、AFSの恩恵を受け続けています。

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