Welcome to AFS YP15

桑原久美子

桑原久美子

桑原久美子

Griffith Institute and Central High School, Springville, NY

~留学の始まり~
1968年8月1日、AFS15期生のチャーター便はサンフランシスコに向かって離陸しました。今と違ってボーディングブリッジもなかったので、飛行機の前で立ち止まって見送りの人たちに手を振って新しい世界へのステップを踏み出したのでした。ピツァというものの名前も聞いたことがなく、日本にハンバーガー屋さんもない時代。出発前のオリエンテーションで洋式のお風呂やトイレの使い方の指導がある時代。1968年当時は、気軽に外国に行ける時代ではなく、また外国の生活については“奥様は魔女”だとか“パティーデュークショー”などのテレビ番組で見るだけの別世界でした。
 サンフランシスコ経由でニューヨークに到着。オリエンテーションのために滞在したホフストラ大学で初めてほかの国々から来たAFS生と出会いました。“どこから来たの”、と聞かれ、JAPANと答えてこちらも同じ質問を返します。ホンジュラス、コスタリカ、、という答えが返ってくると、どこにある国かもわからない。受験生として地理や世界史をやってきたはずなのに何も知らないことに気づき、本当に申し訳なく、恥ずかしい思いをしたことが忘れられません。相手は日本を知っているのに。“もっと世界のことを知りたい”と心の底から思いました。これが私のAFS体験の始まりでした。

~町:Springville~
 Springville はニューヨーク州の西の端に近く、ナイアガラの滝までは車で2時間ほどのところでした。 町の周りは丘陵地帯で、牧場や農場があり、秋には町が赤や黄色の落ち葉で埋まります。冬はマイナス15℃ぐらいまで下がり、家の2階から両手で抱えきれないほど大きなつららが何本も地面まで伸びていていました。たまにアイスストームで、学校がお休みになることもありました。一面雪で覆われるのですが、サラサラの雪で雪合戦はできませんでした。春になると丘のあちらこちらにリンゴの花が咲き乱れ、ライラックの香りでいっぱいでした。
学区内の村に、原子力廃棄物の加工工場があり、毎日牧草地や牛乳の放射線量が発表されていました。私がそれを知ったのは半年近くたってからで、それが特に話題になったこともないように思います。この時初めて、原子力や放射能というものが現実に身近に存在するものだということに気づきました。2009年に卒業40周年のリユニオンでSpringvilleに帰ったのですが、この処理工場はもう閉鎖されていました。

~学校生活~
学校は近隣の小さな町や村から生徒が集まっていましたハイスクール4学年で900人を超える規模で白人だけの学校です。授業は他の生徒たちとまったく同じで、宿題もテストも容赦なしでした。アメリカ史10ページを読んでくるという宿題に夜3時ぐらいまでかかることはしょっちゅうで、“早く寝なさい”、とよく父に叱られたものです。ニューヨーク州ではハイスクールの卒業前にRegents Exam という州の統一テストが各教科であり、それに合格しないと卒業できません。

GI卒業証書桑原

GI卒業証書桑原

春になるとみんなそのテストを意識しながら、真剣に勉強していました。(といっても家で特別に勉強するわけではない!)ただ、学年のなかに数人ほどこのテストを受ける必要がない人もいました。彼らはノンリージェンツと呼ばれていて、学業レベルが規定に達しないためにこのテストを受けなくてもよい生徒です。試験の点数で表される頭の良し悪しをはっきり区別をして皆がそれを知っている。何かがあると“あの人はノンリージェンツだから、、”と平気で言う、そんな社会は私にとってとても違和感を覚えるものでした。ただ、そのノンリージェンツの生徒がフットボールのスターだったり、バスケットボールの選手だったりと、学業以外で活躍の場が与えられ、そこで自分の能力を発揮できる、そして周りの人たちもその活躍を称えるのです。能力の有る無しを公然と評価し、たとえ人より劣っている部分が多くても秀でた能力をその人の価値として認める社会。アメリカの厳しさと公平さを思い知らされた気がしました。 私はといえば、Regents Examのアメリカ史がとても難しかったので卒業できるかどうか、密かに大変心配しました。卒業証書をもらった時は本当にホッとしてうれしかったことを今でも覚えています。
当時ニューヨーク州の高校にはドレスコードという規定があり、女子は学校にはスカートで行くことと決められていました。一年の最後に一日だけ女子もズボンをはいて行っていい特別な日があり、私たちは競ってジーパンをはいて登校しました。
当時はまだ1ドル360円の時代。毎月AFSから14ドルの小切手が送られてきて、それがひと月分の小遣いでした。(出発前、日本で諸費用として250ドルをAFSに納めましたが、その一部がこの小遣いとして渡されたのです。) 勉強以外は留学生は特別待遇でした。学校ではランチは無料、デザートも食べ放題。スキー部に所属し、学区内にあるスキー場でフリーパスをもらい、スキー道具一式も無料。シーズン中は毎週金曜日の放課後、友達の車でスキーをしに行きました。スキーウエアはみんなジーパンにトレーナーでした。すべてアメリカの人たちのボランティア精神に支えられていたのです。
学年の途中には核戦争になった時の避難訓練があり、地下の廊下のようなところにみんなで逃げ込む訓練をしました。東西冷戦を自分たちの生活の現実としてとらえているアメリカという国の一面を見たように思いました。
また卒業が近くなると学校での会話の中に “draft” という言葉がよく出てくるようになりました。当時は徴兵制度があり、ベトナム戦争はすでに泥沼化していました。そんななかで兵士として戦線に出ていく可能性について同級生が真剣に考えているのは、戦争を歴史の中の一幕と考えていた私にとっては衝撃でした。大学時代にべ平連のデモに参加したのも、戦争をなくしたいということともに同級生を戦場に送りたくない、という気持ちがどこかにあったのかもしれません。

~家族~
事情があって10月にファミリーチェンジをしました。新しいホストファミリーはドイツ系アメリカ人で、弁護士の両親と3人の姉妹。家の裏のガレージの上に弁護士事務所がありましたが、父の当時の本業は学校の先生で、私がいたときは州の仕事として先生の指導をする立場にあり、学校では教えていませんでした。
築100年というアメリカでは古い大きな家に住み、ぜいたくではないけれど豊かな暮らしをしていました。ほとんどの家庭が町のコミュニティー新聞だけを読んでいる中で、全国紙のクリスチャンサイエンスモニターやナショナルジオグラフィック誌を定期購読していました。日本のことが新聞に出ることはほとんどなかったのですが、東大安田講堂の記事はかなり大きく、写真入りで出ていたのは覚えています。
また車で一時間ほどのバッファローという都市の劇場の年間チケットを私の分も用意してくれていて、毎月お芝居を見に行き、ついでに美術館や動物園などを見て回りました。
 私にとっての問題は厳しいしつけでした。毎週金曜日学校の同級生たちは町のボーリング場に集まって夜を楽しむのが習わしでした。〝私も連れて行って“と友達に頼んでも“あなたのお父さんは許してくれないと思うよ”とすげなく断られるのです。学校の帰りにスクールバスに乗らず、ボーイフレンドと歩いて帰った時。途中喫茶店でおしゃべりに夢中になっていると突然父が現れて“さあ夕飯の時間だから帰るよ”と連れて帰られたこともありました。その頃は、“アメリカの高校生らしいことがちゃんと経験できない”と不満に思っていましたが、今自分が親になってみるとあの時の厳しさの意味も分かり、ありがたいことだと思えるようになりました。

三世代集合桑原

三世代集合桑原

~AFS留学体験が私に残したもの~
アメリカ人だけではなく、世界各地から集まっている留学生たちとオリエンテーションや一か月のバス旅行を通して親しくしていく中で、それぞれの違いの大きいことに気づき、またその違いを楽しむことを学びました。今AFSで言われている “It’s not good. It’s not bad. It’s just different.” 私の今の活動の大きな支えとなっているのがこの考え方だと思います。周りの人をみて、あれはあの人のやり方、私とは違うけれど、という具合に考えると次に進みやすいような気がします。
また世界各地での戦争や災害、時にはお祭りなどの楽しいニュースに接するとき、友達のことが思い出され、どこの話も他人事ではいられません。こんな風に世界を見ることができるようになったのは、たった一年なのに一つ一つの言葉まで40年以上たっても思いせるような体験があったからです。

~今でも続いているAFS体験~
帰国して半年で大学受験。フランス語学科に進学。在学中は英語の演劇部に所属、ジャンボリー世界大会に参加したアメリカのボーイスカウトの通訳ガイドをしたり、アメリカ人ヘヤーデザイナーのショーやテレビ番組出演の通訳をしたりで英語をフル活用して過ごしました。
大学入学と同時にAFSのボランティアを始め、実家があった静岡支部に年間や夏のプログラムで毎年アメリカの生徒を迎えていました。富士山麓でのサマーキャンプ、ホストファミリー訪問や留学生の相談相手など、全員東京在住の学生支部での活動でした。この活動は航空会社に就職してからも数年続けました。

AFS体験について文章を書くことになったことをホストシスターのメアリーに知らせると、次のような返事が返ってきました。
I feel so fortunate that you came to live with us as this was the greatest and best enriching time ever imagined. The fact that we are so close and our children feel as if Mayu and Sachi(私の娘たち) are family too says a lot!
2000年にアメリカの父がアルツハイマーになったことを知り、家族で会いに行きました。それ以来1~2年に一度は家族で、あるいは子供たちだけでの行き来があります。メアリーの子供たちと私の子供たちはまるでいとこ同士のようです。メアリーも私も、1968年にできた絆が今も強くつながっており、私たちの次の世代に確実に受け継がれていることを感じています。

また1996年には一年間、アメリカオレゴン州からの女の子ジナのホストファミリーをしました。当時まだ中学生だった娘はその後AFSでイリノイ州に留学し、“ホストファミリーの一年は自分が留学した一年と同じぐらいの価値があった”、と言っています。楽しいことばかりではなく、一緒にいるのもつらいと思った時期もあったようです。ジナも日本のお父さんにしかられて泣きながらもうアメリカに帰ろう、と思ったこともあったそうです。筆不精でめったに連絡がありませんが、2006年には突然電話がかかってきました。“お母さん、今東京にいます。あした大阪に帰っていいですか?”

~定年なしの活動、これからも~
今はAFS大阪北支部で活動をしています。
この夏娘たちと北欧旅行に行き、AFS留学時代から親しくしているノルウエーの友達に会ってきました。話をしているとお互い気持ちは‘68年の当時のまま。ただその話の中には親の介護のことなど、年相応の話題も加わっていましたが。。。世界各地から日本に来る生徒たち、そして日本から様々な国に留学する高校生に、そしてホストファミリーの方たちに、私のAFS体験はいまだに続いていることを知ってもらって AFSはlife long experience だということを伝えていきたいと思っています。今年の留学生たちは震災の影響で3月来日予定が8月に延期されました。8月末に大阪に来た生徒たちはその5か月間に一生懸命日本語の勉強をして、どの生徒もホストファミリーと片言で話ができるようになっていました。そんな彼らが本当にいとおしく、さあ、一生続く経験の始まりだよ!と迎え入れたのでした。

今私は児童英語の世界に身を置いています。子供たちに幼いころから英語を教えることについてはいろいろな意見があることは知っていますし、また私自身が疑問を持った時期もありました。しかし今は子供たちに世界の人々と交流する時の驚きや喜びとさまざまな文化に触れる楽しみを伝え、それを経験する手段としての生きた英語を教えようと思ってレッスンをしています。若者が内向きになっているといわれる今、“留学なんてめんどうくさいだけ。テレビで外国のことをやっているし、、、”という子供が増えているのを実感しています。そんな子供たちに高校生で留学したら、百歳になっても感動が続くような経験ができるんだよ!と自分の年齢がばれないように言葉に気を付けつつ、訴え続けていこうと思っています。

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