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清野 寛

清野 寛

清野 寛

Marshall, Minnesota

歩みの始まり

45年 前の今日、1966年8月30日、私は二階の東の部屋で畳の上に寝そべり、姉の「女学生の友」という雑誌をパラパラと読んでいた。その中に、アメリカから 日本への交換留学生として1年を過ごした5~6人の座談会の記事が載っていた。ハッとして、私はその記事を読み、物に憑かれたようにそれから丸2日間、自 分がアメリカに行くことを考え続けていた。
AFS協会という組織があり、その留学制度を使えば、田舎の私のような1高校生でも実際にアメリカに留学できるのである。早速、私はAFSに連絡を取り、一連の資料を入手した。

伏 線はあった。佐野市のはずれに唐沢山という県立公園がある。その年の7月半ばごろ、そこの会館にアメリカからの7~8人の高校留学生が立ち寄ることがあ り、私を含めて数人の同級生が英語の先生から指名されて、会いにいった。何を話したのかはよく覚えていないが、ちょうど大相撲の夏場所の最中だったので、 私が「相撲を知っているか?」とたずねたところ、女子生徒が即座に「オーッ、ノー」と返事したのを覚えている。もちろん、彼女は相撲と喫煙を取り違えたの だが、このとき、私は英語を話す人とこうして、生まれて初めて会話したのである。
日本からアメリカに留学する制度もあると知った私は、いずれは行ってみたいなと漠然とだが考え始めていた。

AFSから送られてきた資料のなかに、過去の筆記試験問題のコピーがあった。その年の試験は秋にあるのだが、過去の試験問題を見ると、当時の私の英語力ではまだ、無理なことは明白だった。
しかし、翌年高二で受けることができる。これで、私のやるべきことは決まった。迷いや疑問はまったくない。試験に合格しないかもしれないということもおよそ考えていなかったと思う。
英語は不得意ではなかった。しかし、学校での英語の授業でしか勉強していない。町にアメリカ人はいないし、英語を聴く機会もない。映画を見たり、FENを聞くくらいしかない。英語力の強化は独学でやるしかない。
アルク社のステューデント・タイムズの購読を始めた。単語を知らないのが分かったので、既に買ってあった「豆単」の英単語を覚えた。街中の本屋で、いわゆる副読本といった類の本を買って、読んだ。その一つに、「マイ・フェア・レディ」の脚本のような本があった。
イライザが話す 「ザ・ライン・イン・スパイン・フォールズ・マインリイ・イン・ザ・プライン(The rain in Spain falls mainly in the plain.)」という例の文章を読んだとき、「ああ、これか」と感じたのを覚えている。

徐々 にそれらが読めるようになり、翌67年1月になると、ときどき「ジャパン・タイムズ」を読み始めた。それは、まだ、難しかった。同じころから、「ニューズ ウィーク」の購読も始めた。ベトナム戦争やアメリカの政治・経済などを読んだわけだが、まだ、頻繁に辞書を引かなければならないので、読むスピードは極め て遅かった。それでも、不思議と読もうとするのを止めなかった。なにせ、私はアメリカに行きたいのであるから。
FEN放送には、ニュースやスポーツの実況放送などにときどき耳を澄ませたが、まだほとんど分からなかった。佐野市ではガー、ピー、シャーといった雑音が入っていたが、聞き取れないのはもちろんそれが理由ではない。
英会話は、本屋で日米英会話といった本を買って、これも丸暗記した。それしかないのだから仕方がない。

私が学んだ佐野高校からAFSで留学した人は誰もいなかった。留学試験を受けた人も極めて少なかったのではないかと思う。
そ うこうして、高二の秋に一次の筆記試験の日を迎えた。佐野高から受験したのは私一人だった。北関東の試験は宇都宮女子高が会場とそうこうして、高二の秋に 一次の筆記試験の日を迎えた。佐野高から受験したのは私一人だった。北関東の試験は宇都宮女子高が会場となっていて、私の席がある教室には宇都宮女子高か らの受験生が大勢いて、楽しそうであった。3時間くらいだったと思うが、試験は無事、終わった。
それからしばらくして、父が佐野高の校長先生から呼び出された。校長先生は、父に、次の二次試験があるが、私は合格するかもしれないのでそのつもりでいてくれと言ったと、父から後で聞いた。
二次試験に向けても英会話の本から文を暗記したり、留学する理由や目的などを自分で文章にして整理しておくなどしか、他にやりようはなかった。

無事、二次試験にも合格して、68年に入り、ミネソタ州のマーシャルに行くとの知らせがあり、テインター家の人たちとやり取りが始まった。
私は、それまでと同じように英語の本、新聞などを読んだり、単語を覚えたり・・・を続けていった。結局、アメリカに行くまでに、アメリカ人と話したのは、唐沢山公園での一回きりだった。

45 年も前の今は昔の話である。社会に出て40年近くになるが、仕事や私生活のなかで、充実し面白かった時期は、どのときも、不思議と自分の英語力がグンと伸 びた時期と重なっていることに気づく。自由自在に英語で考え、話ができるようになりたいという気持ちは、高一のあのときに具体的に始まった。今でも、もち ろん続いている。柔道や能などでその道を究めようとする人がいるが、私のそれは、自分の英語力なのである。

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