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若菜 進

若菜 進

若菜 進

Marshall High School,
Marshall, MO


1995年、1月17日、まだ起こったことの全貌がつかめず、呆然としていたところへ、突然電話がかかってきた。当時コネティカット州ハートフォードに暮らしていたElizabethからだった。続いてインディアナ州ホーナーに暮らすTomからも電話がかかってきた。いずれもぼくと家族の安否を尋ねる電話だった。海を越え、時間を超えて築かれた絆を実感して思わず熱い涙が込み上げてきた。

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 その27年前、私はカンザスシティーの空港に降り立った。空港にはその後約1年私を家族として受け入れてくれたDuBois夫妻と「弟」のDavid, 「妹」のElizabethが白い大型のマーキュリーで迎えに来てくれていた。空港からI-70(国道70号線)を数時間東に向かい、カンザスシティーとセントルイスの中間点あたりで左折、北進してさらに1時間ほど行ったところに人口1万3千人の町Marshallの町があった。道中母親と父親の間に挟まれて前部の座席に座っていたElizabethがきらきら輝く瞳でこちらばかり見ていたのを覚えている。好奇心いっぱいで私の方を見るのだが、ときどき視線が合うとぽうっと顔を赤らめてはにかんだ。なんてきれいな子だろうと思った。

家族

 DuBois夫妻は40代の後半。Mr. DuBois(Dad)の職業はoptometristと言って日本ではさしずめ町の眼鏡屋さん。ところがアメリカではdoctorという肩書きがあり、Marshallの町には私がお世話になる15年ほど前に越してきたとかで地元の人からは”New Doc”と呼ばれていた。

 Dadの思い出といえば、毎晩寝る前にリビングでJohnny Carson Showをいっしょに見たことだ。口数の少ない人だったのであまり会話らしいことはしていないが、中学の時に父親を亡くしていた私にとってはやさしい父親に巡り会ったようでうれしかった。Dadも私を大変可愛がってくれて、1年が終わる頃には近くのミズーリ・ヴァリー大学で半年働いて半年通学するコースがあるが、受けてみないか、と言われた。つまり高校を出たら戻ってこい、ということだ。残念ながらDadの思いに応えることはできなかったが、今もあの、優しい笑顔が忘れられない。

 Mrs. DuBois(Mom)は専業主婦。でもエネルギーの有り余っている人で、家事をおろそかにすることはなかったが、日中はほとんど何かのプロジェクトで外出していた。穏やかなDadと比べると物事をかなりはっきり言う人で、当時は少し煙たかった覚えがある。でも料理の腕は確かで、いつもおいしい食事をさせてもらった。

 「兄」のTomは1年年上。ミズーリ大学の学生で、下宿をしており家にはたまにしか戻らなかった。Momの自慢の息子で、帰ってくる日は朝からMomがうきうきしていたのですぐに分かった。Tomは私の前年にMarshallが受け入れたベトナムからのAFS交換留学生と交際したことがきっかけで、ベトナム戦争にはかなり批判的だった。大学では自治会長をしていたようで、反戦運動には相当深く関わっていて、大統領選を前にした民主党大会ではEugene McCarthyの選挙運動を手伝っていた。

1968年DuBois Family
著者の向かって左がDavid、前列左からDad, Mom, Elizabeth、右端の二人はオランダとタイのAFS生。
このときもTom はいなかった。

 「弟」のDavidは1年年下。地区のアメリカン・フットボールの強豪チームのひとつであったMarshall Owlsのレギュラー。Tomとは対称的にどちらかというと保守的な考え方の持ち主だった。何事も慎重で、私とは口論になることが良くあった。けれども今から振り返ると、おそらく一番私のことを気にかけ、面倒を見てくれたのはDavidだった。部屋をシェアし、デートの時は必ず声をかけてくれ、自分の友達を紹介してくれ、デートがいなくても自分のパートナーといっしょにダンスなどに連れて行ってくれた。さぞかし鬱陶しいことだっただろう。

 「妹」のElizabethは当時13歳。Davidは私が持って行った日本食、例えば焼き海苔(Tastes like spinach!)とかインスタント・ラーメンは全然ダメだったが、Elizabethは何故かどれも彼女の口には合ったようで、”Susumu, could you give me some more paper sea-weed?”と焼き海苔を結局彼女が全部食べてしまった。Elizabethに対しては「妹」という意識が強く働いたし、年齢もずっと下だったので、一度もデートには誘わなかったが、一番気になる女性だった。Elizabethもぼくが好きだったようで、クリスマスの晩には、ぼくが通りそうな時を見計らってmistletoeの下で待っていたのを覚えている。ぼくはどうしてもそこに行くことができなかった。バレンタインの時には、少し小振りだったがハート型のかわいらしい箱に入ったチョコレートを売っていたので、買って、Elizabethの机の上に置いておいた。すると、”Susumu, thank you!”と眼を潤ませてお礼を言いに来てくれた。

その後

 帰国直後のまだ収まらぬ学園紛争の影響でAFSからはすっかり遠ざかっていたが、10年後の1979年、現在の家内(AFS20期生 Elizabethより1つ年下!)とひょんなことでめぐり合い、彼女の勧めで家族に久しぶりに手紙を書いて交流を再開した。そしてあくる1980年、結婚した家内と共にMarshallの家族を訪ねた。

 Dadは心臓病を患い、かなり弱っていらっしゃった。Momは良かれと思って高カロリーのものばかり食べさせたのが悪かったと悔やんでらっしゃった。(Dadは残念ながら、心臓病で1995年他界された。)

 Momには好物の料理をリクエストすると本当にうれしそうに、「久しぶりに」腕をふるってくださった。食堂で二人きりになったときに、Momが「お前たち(Davidと私)が高校生のころにもっと親身になって話を聞いてやるべきだった。」とおっしゃったのが忘れられない。この時初めてMomに対して本当に親密な気持ちが生じたような気がする。以来Momは家内と私のことを「私の日本のかけがえのない子供たち」と呼んでくれるようになった。

 Tomは奥さんのTerryを紹介してくれた。煙草をよく吸う、やや神経質そうな、シャイな感じの人だったが、DVの被害者の相談に乗るカウンセリングの仕事をしているということだった。Terryは打ち解けるに従って繊細でナイーヴな人だということが分かったが、家内に対してはすぐ心を開いて、その後もよく連絡をくれるようになった。そして息子のSam。金髪で巻き毛のまだ幼いSamは2人の愛情をたっぷり受けて育っていて、家内がすっかりほれ込んでしまい、数年後、西宮の我が家に呼んだ第1号になった。呼んだ時もまだ小学生だったSam坊や、温泉に連れて行った時はpublic bathというのが恥ずかしくて恥ずかしくて顔を真っ赤にしてなかなか浴槽の方に行けなかった。広島の原爆記念館に連れて行ったが(その後我が家では家に呼ぶ子供たちに広島もうでを義務付けている。)、幼いながらも強いインパクトを受けたようで、その後のSamの内省的な性格を形成する一つの要因になったようである。

 Samは初め学校教育になじめず、しばらく大学に進学せずにうろうろして我々を心配させたが、最近になって進学し、今は若い女流作家をメンターとしてその指導を仰ぎながら、creative writingを教えているそうである。Samには妹がいて、その妹のKalelinの方は学業優秀。政治に関心を持ちながら順調に社会人の道を歩んでいる。

 Tomは大学卒業後良心的兵役拒否を貫いたのだが、そのせいで就職には苦しんだそうである。知的で優秀な人であるにもかかわらず正規の就職はできず、1度目に訪ねた時はU.S. Steelの日雇いを、2度目に訪ねた時はシカゴで主としてラテン系の労働者たちに教育をするボランティア活動の事務所で働いていた。

 Davidは学業優秀、フットボールのレギュラーとその後順風満帆の人生を歩むものと思っていたが、兄や私の考え方を少しずつ影響されたのか、一時極度の自己不信に陥り、Momの話では頭髪が急にどんどん抜けだしたそうである。その後、TM=Transcendental Meditationと巡り会い、心の平和を取り戻し、インターネットを使ってブローカーのような仕事をしていたが、最近は独立企業家として教育関係の仕事をしているらしい。奥さんもTMの仲間で、オハイオ大学教授。娘のNickyはRiver Danceをやっている。
Davidは兄弟で唯一結婚間もないころ日本の我が家を訪ねてくれた。

 Elizabethは2回離婚し、現在は日系アメリカ人と結婚してカリフォルニア州に暮らしている。

 Elizabethはその後も日本食好みは変わらず、行くたびにお気に入りの和食のレストランに連れて行ってくれた。また、Elizabethの子ども達も和食好みが遺伝したようで、上のRachelは大学生になってから日本に訪ねてきてくれたが、出かけると必ず「美しさに買わずにはいられなかった。」と言っては和菓子の生菓子を買って来てお茶に誘ってくれたし、下のAndrewは中学生の時に来て、一番の好物は天丼。”I love sticky rice!”と言っていた。血は争えないものだと感心した。

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 9.11では妹のElizabethがすっかり時代の空気に飲み込まれてしまって、アメリカの権威に傷がついたと言っていたのが残念だった。阪神淡路大震災では国境というものの意味があれほど希薄に思われたのに、このときはふたたび壁を感じてしまった。

 1969年の帰国の頃はベトナム反戦の気運が周りに充満し、私の中にも反米の意識が強まって、アメリカの家族から遠ざかってしまう愚を犯したが、ここに来てまた国境というわけのわからぬものが私たちの間に立ちふさがるのを感じないわけにはいかなかった。あれほど親しくなっても人と人の間を裂きかねない「国民」という意識、私たちはどのようにしてこれを乗り越えてゆけばよいのだろうか。

エピローグ

 今年の6月Momは90歳、弟のDavidは60歳になった。「私たち合わせて150歳よ!」と家族全員でパーティーを企画し、私にも会いに行くことを心待ちにしてくれていたが、仕事の都合上、どうしても行くことができなかった。どれほど残念に思われたことだろう。

 8月にはTomが電話をかけてきて、「ナデシコ・ジャパンがアメリカチームと優勝を争うことになったな。アメリカチームには勝ってもらいたいが、日本チームが勝ったら東北の人たちにはずいぶん励みになるだろうな。」と言ってくれた。

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