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藤野 彰

藤野 彰

藤野 彰

Foothill High School
Sacramento, California

時を超えて''''''

 八月の光の中、あの日われわれはサンフランシスコに着いたのではなかったか。だが古ぼけた手帳を繰ってみると、その日は雲が重苦しく垂れ下がっていたのだ。夏の赤茶けて乾ききった大地、それは至る所緑に覆われる春のそれとは違い、なにやら空虚な思いを与えたに違いない。その暑さと明晰さはしかし、確かな光彩を放っていたようでもある。夏は熟していた。

 そしてわれわれはスタンフォード大学でオリエンテーションを受けた。二日後にはそれぞれの高校のある地に移って行ったのであったが、その友人達が小生の所在を見つけてくれたお陰で、この小文を綴ることになったのだ。

 さて。 私の高校はフットヒルという生徒数1,300名ほどの四年制の学校で(中学が二年制なのだ)、まだその四年前に創立されたばかりであって、郊外に建っていて、私はそこの三人目の留学生だった。よれよれの手帳を頼りにその頃のことを掘り起こしてみようと思う。この学校、設備は目を見張らせるものがあった。全て一階建てで、体育館は両側から引き出せば階段状の観客席がせり出して来ると云う具合、それに付属して同じ建物の中にもうふたつ小さいジムがあり、ロッカーとシャワー設備も整っていた。キャフェテリアがあり、ごく充実した視聴覚設備があり、そして、スポーツの盛んな高校であった。シーズンごとにチームを組むのだから、いくつも兼ねてやることは不可能ではない。レスリングと陸上競技に参加したが、そしてなんら芽は出なかったのだけれど、体の故障やら(一体何だったのだろう)重量制限に合わせるため試合前は常に空腹だったのももう懐かしいものだと、手帳にあった。

 授業のなかでは、アメリカ史、政治、スピーチ、フランス語、体育とイギリス文学を取ったらしい。もう記憶のかなただけれども。卒業のための必須科目を一年間で取らなければならなかったから、そう云えばむやみに忙しかった覚えがあるな。ディベートも盛んな学校で、時間を工面しては色んな大会に出たのだ。やたらと大きな、両手でなんとか抱え込むことの出来るボックスに資料を書き込んだカードを詰め込み詰め込みし、うろついていた記憶がある。今ならただノート型やらタブレット型のコンピュータがあれば済んだであろうに。

 そもそもAFSのことを知ったのは、当時の高松宮杯(現高円宮杯)全国中学校英語弁論大会に出た際のことではなかったか。後に高名な同時通訳者になった先輩から最初に聞いたのであったかどうか。そしてその頃会った友人の幾人かはAFS生となり、高校時代にまた会うことになったし、他の幾人かは大学の時にこの弁論大会も運営する会で再会したのであり、それが今に続くのだ。ひととの出会いと云うのは、早すぎもせず遅すぎもせず丁度良い時に起るのだ、と教わっていたけれども確かにそうであった。

 閑話休題、サクラメントの話だった。木立の美しい町である。市の最も古い地域に行けば趣きがまた違うし、良く整備された道路に沿って並ぶ街路樹は素直に目を楽しませる。灌木の茂みが連なり、また一大花壇が道の傍にいすわり、樹齢何十年かにもなろうかと云う木々がほぼ等間隔に足し、それぞれの家の風格とともに、静かなたたずまいを見せていると、古い手帳にあった。

 あの頃、カリフォルニア州知事はレーガンが務めていた。サクラメントの校区の留学生5人がレーガン知事をその執務室に訪ねて、机の上にあった知事の好物ジェリービーンをわれわれで平らげてしまったことなどが、地方紙に載った。あの記事の切り抜きは何処にいったのだろう。他のは手元にあるのだけれど。
Sacramento Bee photo 1969fujino
Sacramento Bee新聞に載った、高校での疑似選挙風景。手前左が小生。 

そう云えば、交換プログラムでオークランドに行ったことがある。この高校はその頃良く読んでいたジャック・ロンドンが卒業生の中に名を連ねていたのを知っていたから、こころ楽しいものがあった。 作家の痕跡などは見当たらなかったにしても。滞在中、その高校のスキー部がロッキー山脈に連れて行ってくれた。山頂で、スキーの付け方と、(後に思い起こせば)ボーゲンと云う滑り方を教えてくれてから、やつらはじゃあなと云って消えてしまったのだ。その後の、ロッキー山脈の長いスロープをひとりで滑り降りる困難は筆舌に尽くしがたい。

 これほどに時が過ぎれば、もう断片的なスナップショットが記憶の片隅から思い浮かぶだけになる。脈絡もなく。さしたることもないものが細部にわたってよみがえり、人生の重大事であったことがその感銘の度合いのみ記憶にあり、細部は消えてしまったかのごとくである。

 帰国して高校の新聞に一文を寄稿したことがある。確か一ヶ月余り過ぎた頃であった。またもとの生活に戻った、まるで何事もなかったかの様にと。だが今でも時折、ふと次の角を曲がるとサクラメントの家に戻れるのではと云う気になることがある、と書いたのではなかったか。

 十年後、私は再びカリフォルニアにいた。今度はUCLAの大学院に籍をおいて。その間、旧い友人らを探してみたけれども、再会出来た友もいれば、私の視界から消えたまま消息の知れないひと達もいた。

 二十年後、私には家族がありウィーンに住んでいた。此の地で生まれた双子の娘達も伴ってサクラメントを再訪した。そのすぐ後、卒業後二十周年の同窓会が企画されていた。しかし仕事の都合で、その日までカリフォルニアに居ることはかなわなかった。

 そして四十年後、幾人かのカリフォルニアの友人が私を見つけてくれたのだ。インターネットが普及して、もう今はずいぶんと年配になっているひと達までがそう云ったすべを身につけていた。また人生が交差した。

 三十年余り前、国連職員となってから通算二十五年余りをウィーンで暮らし、その間五年近くバンコクに住んだ。そもそもジュネーヴの空席に応募したはずが、ウィーンからの採用通知に驚いたが、その頃設立されたウィーン国際センターに様々な国連の部署が移っていたのだ。条約で設立され、准司法的な機能を持つ国際麻薬統制委員会(INCB)の事務局に最も長くいた。現在この事務局は、組織上は幾度かの機構改革によって今の形になった国連薬物・犯罪事務局(UNODC)の中にある。その後UNODC東アジア・太平洋地域センターに異動しバンコクに移り住むことになる。さらにまたウィーンのUNODC本部に戻り、この春定年退官して三十年ぶりに一旦日本へ居を移した。
 
 あれから様々な国を訪ねた。黄金の三角地帯の奥地に分け入り、アフガニスタンに足を踏み入れ、アンデス山脈の奥地に飛び、アジアの各地を訪れ、またアフリカの幾つかの地も踏んだ。

 思えば高校での留学がその全ての始まりであった。今ではその様々な出来事のそれぞれが記憶によみがえることは少なくなってしまったけれども、友人らと過ごした遠い夏の日の木陰や蜂の羽音に、また遥かなる時の流れに思いを馳せ、燦爛たる壮烈さで炎上していたカリフォルニアの陽を思い起こすとき、時間は消える。
 この先、恐らくは日本と国外で過ごすのが半々くらいになるようである。国連との繋がりも続くと思われるし、さらにこれまでの仕事とそれ以外の活動の延長での新たな道を開きたい。タイにいる間にダイバーとなったのでもあり海洋環境保全の一助となること、また例えば黄金の三角地帯の農民を支援すること、これらにそれぞれのネットワークを駆使して携わるべく、思いを巡らせている。

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マリンフォト誌夏号招待席fujino 1
ついでに載せるこれは、今年の初めマリンフォト誌招待席の作品。

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