Welcome to AFS YP15

衞藤秀三郎

衞藤秀三郎

衞藤秀三郎

Pomfret School, Pomfret , Connecticut

-東京大学(法)卒業後、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)へ。国際業務中心に、ロンドン・ニューヨーク・KL/マレーシアに滞在。現在は応用地質㈱で海外グループ会社担当、海外出張が多いです。
-趣味は、紐育・KL時代からの男声合唱団。また、ここ数年、千葉商科大学会計大学院で、CIA(公認内部監査人)資格取得講座を、春・秋、友人と二人で教えています。
-座右の銘は、「一期一会」。人との出会いを大切にし、残された時間を有意義に過ごすことを心がけています。ラオスの子供達を小学校へ行かせる民際センター/ダルニー奨学金という小さなNGOも支援しています。
-今回のAFSMLで、多くのみなさんが私の近くにもいらっしゃったことがわかり、懐かしい思いです。また、「かしま病院 希望の友」のプロジェクトへのみなさまのご支援、本当にありがとうございました。

1. AFS時代の思い出

① 住んだ場所と寄宿制の学校
私が1年間を過ごしたのは、東部コネチカット州ポンフレットというニューイングランドの片田舎で、Pomfret Schoolという寄宿制の学校とキャンパスがありました。穏やかで優しい緑の丘陵地帯の中に、英国風の赤レンガの学校校舎・寄宿舎と、先生達家族が住む白い板張りの家が立ち並ぶ美しい場所です。学校以外には、町と言っても特にお店が並ぶわけでもなく、牛や羊が草を食む草原や森が、緩やかに広がっていました。
人口は500人ぐらい。といっても、学校の生徒が4学年で250人、先生方が家族も入れて150人ぐらいで、結局この学校の住人だけみたいな町。日本の街から来た私にとって、こんな寂しい場所で1年間も過ごせるのかな?というのが第一印象でした。
(*AFSでは、毎年、私のような寄宿制の学校で過ごす学生が10名前後いました。Preparatory Schoolといって大学進学予備校と訳され、みな有名大学進学を目的とした学生ばかり。東・西海岸に一定の数があり、英国Public Schoolの伝統を引いているとのこと。古くから男子校だったのが、私が来たこの年、男女共学となり、10名程度の女子生徒が入って来ました。) 

ニューヨークから、汽車を乗り継いで来た17歳の私を迎えてくれたのは、この学校のライブラリアンをやっている50歳ぐらいのMr. Williamsという先生。奥さんと18歳の長男、16歳の長女、14歳の次男。子供達はすべてこのPomfret Schoolに通っており、特に、ホームステイ先がない私の米国最初の夏休みは、彼らをホストファミリーとして始まりました。残念というか、ちょっと厳しかったのは、私のホストブラザーにも当たる18歳の長男が、この夏、サマーキャンプのカヌー事故で行方不明になっていたこと。その事実を知った上で、一緒に過ごしたのですが、やはり、落ち込んだ雰囲気の中で、お父さんのMr. Williamsと私が、家族の気分を盛り上げようと頑張った夏休みでした。・・・遺体は3ヶ月ほどたった秋に発見され、学校葬が執り行われました。でも、この夏休み、そして続く一年間をいろいろな形でWilliams一家と一緒に過ごしたことが、普通の家族以上の関係として、その後、今日に至るまで続いています。

② 思い出~個人主義と自己主張
 Pomfret Schoolでの授業は、それなりにハードなものでした。特に、英語=国語=の授業で、いきなりシェークスピアのMacbethを原語でやらされたのには閉口しました。とにかく、持って行った英和辞典にも出てこない単語が多くて・・・・。他の科目でも、大量の読み物と、少人数の授業での活発な討論への参加が要求されていました。また、何をするにつけても、常に「他人と違っていること」・「自分固有の意見」が要求され、強いプレッシャーを感じたものです。
今、振り返って思うと、この時代、米国では“ミーイズム(me-ism)”という自己第一主義が万能の時代だったと思います。対外的にはベトナム戦争が行き詰まり見せ始め、国内的にも大学紛争とともに公民権運動の停滞が叫ばれ、磐石だったアメリカの権威が揺らいで来た中、みな自分のアイデンテティを捜し求めていた時代でした。・・・「ルーツ(roots)」という小説がベストセラーになったのも、この頃だったと思います。

忘れられない思い出は、人種差別がこの進歩的な東部エスタブリシュメントの学校社会でも問題になりかけた時のことです。生徒の一部に黒人及びプエルトリコ人など、有色系の人たちがいました。昼夜共に過ごす寄宿舎の生活の中で、何が原因だったか記憶にないのですが、このマイノリティの仲間と南部・西部から来ていた白人生徒達の間に、論争から、いがみ合いが起こったことがあります。同じクラスでの授業をボイコットするというような雰囲気まで進みつつあり、先生方も心配していました。私は、黙っておられず、万全の準備をして、ある木曜日の朝の全校集会の時を利用し、5分間ほど、自分の意見を述べました。それはAFS生という立場から、そして日本人という立場から、両者の理解と和解を説くものでしたが、多くのクラスメートや先生達から、「よく言ってくれた」と握手を求められました。ただ、「みんなが、お前の言うことを良しとしているわけではないぞ。」とシニカルな言葉を投げてきた生徒がいたこともはっきりと覚えています。
米国という多民族国家に生きるマイノリティの人たちの厳しい考え方、特に、他人とは異なる自己主張を強力押し出さなければ生きていけない現実、それと比べて、みんなの中に溶け込んで生きている日本人の習性や文化、ホッと出来る社会など、いろいろと考えさせられました。一方で、「自分固有の意見」を大勢の面前でスピーチできた自分に、ちょっぴり自信を持たせてくれた出来事でもありました。 
2. 帰国後の話と、今、思うこと

多くのAFS同期の仲間とともに、この一年間は自分のコアを作る上で大きな意味を持
った一年間だったと思います。Pomfretでの生活は、スポーツを奨励していたこともあり、秋はアメリカンフットボール、冬はバスケットボール、春は野球と、運動が好きで得意だった私のこの面も大きく伸ばしてくれました。そんな中で自信をつけた私にとって、「他人と違っていること」・「自分固有の意見」ということは、帰国する頃には既に自分の一部になっていました。
同質性が高く、調和を尊ぶ日本社会の中で、これが必ずしも良い方にばかり受け取られなかったことも多々あります。私の表現力も未熟だったということでしょう。しかし、社会人となって、いろいろな国で生活し、交渉事などいろいろな国の人達と接触をする上で、広い視野と自分の意見を持ち、相手の考え方を理解しつつも自己主張を貫くという点では、かけがいのないものを養ってくれたと思っています。
また、この若い時期に培われた積極性は、その後の交友関係を豊かなものにしてくれました。世界中には、いろいろな文化・歴史背景からさまざま考え方をする人がいます。
 単に英語によるコミュニケーション力だけでなく、同意はできなくてもその考え方を理解することは、それだけ自分の幅を広げてくれることでもあります。「一期一会」、この世に共に生きる人間として、お互いの出会いを大切にしていきたいものです。

今は、まだ、民間事業会社で収益追求の現役生活を送っていますが、自分の関心は徐々に違うものに移って来ています。良いことばかりではなくても、これまで非常に恵まれた人生を送って来られたという感謝の念が湧いて来て、なんらかの形でこれをお返ししなければいけないという思い、それが、ここ数年、自分をNGO・NPOの活動に向かわせています。ラオスの子供たちを小学校に行かせる活動をしている民際センター、韓国からの大学院留学生に日本語の論文の書き方を教える仕事、そして、今回の東北大震災の被災者に食器など日用品を送る「かしま病院 希望の友」の活動など、この例です。
「自分は」、「自分が」という自己主張からも少し離れ、ただ、支援を必要としている人たちに、自分に出来ることをして差し上げる。そこから得られる喜びと満足感を糧に、また次の機会を探して行くという単純な生き方。これが今の私の理想です。
以上
 

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