Welcome to AFS YP15

西ヶ廣 渉

西ヶ廣 渉

西ヶ廣 渉

Centerville High School
Dayton, Ohio

1.シェイクスピアを理解するために

英語の勉強を始めたのはシェイクスピアを理解したいと思ったからだ。シェイクスピアに関心をもったのは、小学校2年の頃、教育テレビで「ハムレット」(1948年、ローレンス・オリヴィエ)を見て、それを父に買ってもらったオープン・リールの録音機で記録し(音だけ、当時はヴィデオ・レコーダーがなかった)、何度も聞いていたから。それで、皆さんの経験と同じように、松本亨の英語講座を聴き、毎日、後について声を出して練習していた。その他、聴いていたのは、京都のカソリック教会が報じていた「心の灯」(河内桃子)であり、そこから送ってくる「ヨハネによる福音書」(欽定英訳版)などを勉強していた。

初めてシェイクスピアの英語を一冊分読解し得たのは中学3年の夏だが、「ハムレット」を福田恆存の訳と突き合わせて読んだ時。福田訳のどの部分が英語のどの部分になっているのか分からず、また、1行について5回ぐらいも辞書を引かなくてならなかった。だが、その過程で福田訳に誤訳を見つけた時は嬉しかった(その部分は今の新潮文庫版では訂正されている)。

1968年に米国に行った時の僕は、そんな生活を送っていた「変人」だったので、米国の高校でも「シェイクスピア!」と呼ばれていたし、ホスト・ファミリーの母親がくれたクリスマス・プレゼントも「シェイクスピア全集」だった。

2.リチャード・ニクソン大統領

オハイオ州のデイトンという町に到着し(今は「デイトン合意」で知られているが、当時はライト・パタソン空軍基地とライト兄弟、ナショナル金銭登録機の本拠地として知られる程度)、それでも愛知県北部の田舎から行ったので、ずいぶんと都会に来たものだといった印象。あの年は、ニクソン対ハンフリーの大統領選挙の年であったが、今とは異なっていて、中西部のオハイオ州は共和党支持派が多かった。友人は皆、ニクソン支持者であった。1年が過ぎた後、バス旅行の最後に「ホワイト・ハウス」に行き、ローズ・ガーデンに集まった世界各地から来たAFS生に対して、ニクソン大統領が挨拶を行ない、「これ程に素晴らしい学生の集団を見たことがない」と述べたことを記憶している。当時は、どうして集団を目の前にしただけでそんなことが分かるのかなどと思っていた。雰囲気とか感覚なのか、論理を超える何かがあるのであろう。

その後、ウォーターゲイト事件などがあって、ニクソン大統領を好きだと言うと「変わった人だな」といった目で見られてしまうようになったが、今でも彼は魅力的な人物だと思っている。他方、近年の芝居「ニクソン対フロスト」(2006年、ピーター・モーガン作)などを観れば、少なくとも彼には誠実さと人間的魅力があることは誰も否定できない。後年、外務省に入ってから、ニクソン元大統領と福田赳夫元首相との会談の通訳をやったことがあるが、ニクソン大統領は同席の通訳に対しても気を使う大変に優しい性格の人物であった。

3.国語のヤング先生

米国の高校生活で最も印象的であったのは授業である。日本と違って、毎日同じ時間割になっているので、宿題などは即日に仕上げなければならない。修得科目は、国語(英文学)、スピーチ(弁論術)、仏語、微積分、米国史など。

国語では、「ベイウルフ」や「シェイクスピア」をやるのだが、ある日、担当のマーシア・ヤング先生が「今年は日本からの学生がひとり居る。ちょうど良い機会だから、皆で『マクベス』の一場面を日本語でやりましょう」と発言。一番驚いたのは当の本人である僕だった。日本に居る妹に「マクベス」の日本語テクストを送ってもらったのだが、彼女は福田恆存でない別の人物の翻訳を送ってきた。福田訳でなければ、とても日本語では演じられないと思ったので、再度、福田訳を送ってもらい、それをローマ字に直した。当時はファクスもないし、航空便でやりとりしていたから、そうこうしている間に3週間ばかりが過ぎてしまう。だが、それでも日本語で「マクベス」を演じることにヤング先生はこだわっていた。やはり、当時と今とでは時間の流れの速度が違うということか。それとも、異なるのは価値観なのか。

「待て、地獄の犬め」といったマクダフの台詞を友人のダグラス・ビュキャノンが語るのだが、何度「待て」と教えても、「メイト」としか言わないのには参った。米国人も文字から入るとそうなるのかと思った次第である。でも、この時、これまでの生涯で一度だけ芝居の演出をさせてもらった。

ともかく、当時の高校生活にはこれだけの余裕があったのだが、今のオハイオ州ではどうなのだろう? 僕の息子がニュー・ヨークの私立高校に通っている頃にはもうそんな余裕はなくなっていたのだが。それでも、異文化に触れることから得られるインスピレイションは何ものにも代えられない。

4.スピーチのべンダー先生、微積分

「スピーチ」という科目の授業があった。ラルフ・ベンダー先生の担当で、表現力、論理力を高め、説得力があって、かつ、面白い話を人前で出来るようにするための授業であった。ここで学んだ「紙を読み上げない」という姿勢は、今でもずいぶんと役に立っている。もっとも、米英人のみならず、インド人でも、リビア人でも人前で話をする際に、紙を読み上げる人は居ないのだが。

ベンダー先生という人は、何か複雑なことを暗記させる能力に通じていた。彼が、その深い声で、ゆっくりと、耳元でしゃべると、それが直接そのまま記憶させられてしまう。まあ、呪文のようなものか。「デッド・ポエッツ・ソサイエティー」(1989年の映画)のキーティング先生のような人であった。何となく人間に自分自身を見詰めさせ、やる気を与えてしまうのだ。

ある時、ベンダー先生は、授業で、日本でいうジェスチャーのようなことをやらせた。僕ともうひとりの学生に「誘惑的な女性が迫るのに対し困惑するナイーヴな青年」という題を与えた。これは今も表現力を高めるための授業であったのかどうか分からないのだが、日本において経験したことのないような迫られ方であったことは事実である。僕は、中学、高校と男子校なので。

母校、名古屋の東海高校の同級生と先生方には大変にお世話になった。ある時、微積分の授業で回答が分からない問題があり、これを名古屋の友人に書いたところ、まもなくして数学の清水先生から手紙が来て、回答が書いてある。それも、英文だ。それを微積分の先生に見せたら、回答の手本だといって、教室の壁にしばらくの間、貼り出しておいてくれた。数学の先生が英文の手紙をくれたことに驚いた。その他、この授業では、江戸時代に微積分を行なった日本人数学者、関孝和のことを初めて知った。

5.帰国後の40年間

1969年夏に帰国すると高校時代の親友の多くは、浪人中とかで、まだ東海高校の予備校部に居た。それで、1年下の学級に戻っても、違和感はなかった。その後、一橋大学2年の時期、役者になって演劇の道を進もうとしていたのだが、夏にパリ、ベオグラード、欧州各地に3ヶ月滞在した。その時、フローレンスで会った米国人学者の示唆を得て、外交官試験を目指すことになった。

今も続いている外務省生活の中で、対米関係を直接に行なったのは1980年代前半の「ロン・ヤス」時代であったが、やはりレーガン大統領には敬服している。今でも1968年夏のように、米国が共和党政権の時の方が、外交政策が安定しているように感じる。

外務省では、経済協力(援助政策)、国連、EU、安全保障と何でもやってきた。在外勤務は、英国、パリ(OECD代表部)、マレイシア、ブラッセル(EU代表部)、ニュー・ヨーク(国連代表部)、インド、リビアなど。後の世には「2月17日革命」として知られることになる本年のリビア戦争は、表面的にはサルコジ仏大統領とキャメロン英首相が主導したようにみえるが、本当のところは最大の責任と負担を担っているのは米国であり、米と英は今後リビアにおける影響力を拡大していくだろうと思っている。なお、役者になることは諦めざるを得なくなったが、シェイクスピアに対する関心は続いており、肉体がこの世から消滅する前には「西ヶ廣渉訳・シェイクスピア全集」(全46冊)を出版したいと思っている。あ、それから、機会があったら、結城雅秀著「シェイクスピアの生涯」(2009年、勉誠出版)をお読み下さい。

写真西ヶ廣

近況

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional