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谷 節子

谷 節子

谷 節子

Holland, Pennsylvania
Council Rock High School

AFSと私

ニューヨークからニュージャージー州を通り、デラウェアー川を渡ったペンシルバニア州
東南部のHolland という小さな町が私の第二の故郷になりました。ニューヨークからは
3時間、フィラデルフィアからは北方向に2時間あまりでしょうか。独立戦争当時の史跡や
建物の残る東部らしいバックス郡にありましたが、Holland自体はのんびりした中産階級の住宅地でした。

*ワイルドな人々 ~ 家族*

迎えてくれた家族は両親,ひとつ年下の妹、3歳年下の弟、6歳年下の妹そして犬の
Cha-Cha. Wildmanという家族でしたがwildとは程遠いやさしい人々でした。

父はエンジニアでウイットに富み、博学で分からないことは何でも説明してくれました。私の語学力がなくて、なかなか家族間でコミュニケーションがうまくいかなかった頃は、
何度も話し合ったものです。もっと自分の気持ちを話すようにと。母はお料理好きの家庭人というより知的でスペイン語を学んだり図書館でアルバイトする人でした。毎週水曜日は父がゴルフをしてくる日なのでここぞとばかり子供4人をつれていつもハンバーガー
ショップに行っていました。子供たちもバーガーキングにしようか、マクドナルドにしようか迷ったり、ミルクシェイクに大喜びでしたが。あとひとつびっくりしたのは、朝食は
各自で準備。母は子供たちが出る頃、父のためにやっと起きてくること。最初はトーストと卵料理をしていた私も、いつのまにかシリアルになり、ついには弟と一緒にミルクにインスタントブレックファーストなる粉を混ぜるだけになりました。夫婦で週一度は夕食後にブリッジに出かけるのも新鮮でした。敬虔なクリスチャンでもあり日曜日の礼拝は欠かさず、その前の日曜学校に私も妹たちと参加。特にひとつ下の妹は学校の仲間より教会のユースグループとの活動に熱心で、これもきっとひとつのアメリカの典型だろうと感じて
いました。

その妹は美術が得意で、物静かで、いつもやわらかい雰囲気で私を包んでくれました。
新学期が始まり、スクールバスの停留所まで5~6分歩いていくのだけど、お互い口数が少ないので気詰まりな時間でしたが、10月に入った頃からかそんな気持ちがいつの間に
消えて、それからはしゃべろうがしゃべるまいが妹といる時は居心地がよくなりました。
心が通じたと言うか、それからは一緒にいての沈黙も気にならなくなったのです。
弟は大きくて愉快な男の子。下の妹はほっそりと背が高く、いつもファッションモデルの
ようなポーズをとって可愛かった。彼女の部屋を私に譲ってくれたので、妹二人はひとつの部屋を共有していました。

*大きな岩の元で ~ 学校生活*

高校は先住民たちが会議をする大きな岩があった、ということに由来したCouncil Rock
High School。 近くの大きめな町Newtownにある1400人位の公立校で、黒人生徒は数えるほど、ほとんどが白人生徒でした。授業は英語、社会American Civilization,保健体育が必須科目であとは選択。 美術、数学、Creative Writing & Public Speakingをとりました。毎日基本この6科目が一年通してありました。

美術は“ロミオとジュリエットのテーマ”とか好きな音楽を流して好きな絵を描ける幸せな時間でした。才能あふれる級友の作品に触れたり、遠足でN.Y.のメトロポリタンやグッゲンハイムに行けたのは得した気分でした。町のお祭りで作品の展示即売をして、小遣い稼ぎもできました!

一番好きだったのはPublic Speakingのクラス。勿論英語を人前で話すのは苦労の連続でしたが、先生のMr. Martiniが魅力的でした。 ユーモアがあり、時に厳しく、そして
いつも温かい。私にSukiというニックネームをつけたのも先生でした。最初の授業の時
Setsukoとは呼びにくいので“Sukiにしよう”と。それから学校ではSukiと呼ばれるようになりました。おかしな感じでしたが“皆に好かれてる”と思い込むことにしました! 
デモンストレーションスピーチでは抹茶をたてて皆に味わってもらったり、日本のことをスピーチにしたりと日本を知ってもらうのにも良い機会でした。新聞や週刊誌の記事から
スピーチする時は、なかなか題材が見つけられず、夜遅くまで父と母に手伝ってもらったこともありました。あとおかしかったのはImpromptu Speech(即興のスピーチ)で、私だけでなく言葉が困らないはずの生徒達も“ええと・・・”なんていって続けられなくなったりすること。大きなフットボール選手が小さくなってあたふたするのを見て、私だけでないと思って安心したものです。このクラスで級友たちから多様な事や考え方を知らせてもらい、直後がランチということもあり、大事な仲間ができました。その時のクラス
メートの一人が日本人と結婚して日本に住んでいるのも不思議な縁です。

スポーツが好きだったのですが、日本の学校のようにクラブ活動はなくて、季節により
トライアウトを受けてチームに入りました。秋から冬はバスケット。春はソフトボールをしました。バスケットではワンピースのようなユニフォームにびっくりしたり、たいした経験なかったソフトボールでは、2軍ですがピッチャーをして試合で勝ったりといい経験ができました。授業とは違った場所で少しづつ自分の居場所ができてきました。

学校で忘れられないのはタレントショーのこと。今思っても冷や汗ものですが、留学前に
にわか仕込みで覚えた日本舞踊を披露することにしたのです。初日どうしたことか違う曲が流されて、私はといえば舞台の真ん中で、お扇子を持ったまま動けず立ち尽くしたまま。情けないやら恥ずかしいやら。何しろ二つしか踊りはできないものだから頭の中はパニック。楽屋に戻ると何人もが駆けつけてくれたけど、涙がこぼれ始めました。悲しかったというより、情けない気持ち、せっかく用意してくれた裏方さんに申し訳ないやら、いろ
いろな思いが混ざった気持ちで、今までないくらい泣き続けてしまいました。でも日本人は感情を表さないと思われていたらしく、泣いたことがよかった、と多くの人が前以上に親しみをもって接してくれたのはけがの功名でした。翌二日の踊りはばっちり(?)でした。なにしろ地域の新聞にメインイベントは日本人留学生によるお扇子の踊りと書かれたくらいですから。

*そして今は~*

一年の留学生活を楽しく過ごしてこられたのも家族、学校、地域の人々、そしてそのほか
AFS活動を支えてくれたすべての人々のおかげです。とりわけホストファミリーには何から何まで助けてもらい、たくさんの愛情をもらいました。69年のお別れの時、上の妹が”二人ともあまり手紙は書きそうにないけど、いつも心では思っているから。何でもできることはするからね。“と書いてくれました。確かにたまに手紙を出しあうくらいでしたが幸運なことに主人のアメリカ駐在時、特にニュージャージーにいた3年間(83年~86年)は毎年
感謝祭、クリスマスと妹の家で一緒にすごすことができて絆は深まりました。ただ相変わらずこちらがお世話になる一方です。父は私の留学後の数年で会社が倒産し、失業が長期に渡り不遇でしたが、前と同じ地域に住み、私や家族を母と一緒にいつも温かく迎えてくれました。ただあれほど生活の一部だった教会には行かなくなったと聞いた時、父の落胆の大きさを思いました。その後88年と95年に家族全員で会いに行き、娘が2001年感謝祭にお世話になりました。主人も出張の際に訪れています。一番最近では2008年紅葉のカナダで13年ぶりに妹と会いました。今では5人の孫がいる(その当時は3人)妹は毎晩ご主人に電話する家庭的な優しい女性です。そして相変わらず二人とも筆不精で(メールでも)、69年に彼女が書いたことは今でも当たっているのです。

母は昨年亡くなり、ちょうどこの九月が一周忌のメモリアル。出席できず本当に残念
でした。父は今故郷オハイオの老人ホームにいて、少しは忘れっぽいけど健康にすごしています。

大好きな英語を大学であまり磨くこともせず、卒業後大して生かすこともなく、またAFSに恩返しすることもなくこれまで来てしまいました。それでもあの一年間で培われた柔軟性=多種多様な考え方を持った人々を分かろうとしたり、自分を分かってもらおうと努力したり=はその後、特に家庭を持ってからの何度かの転勤で、環境が変わってもそこで相手を受け入れ楽しんで生活できたことに繋がっているのかなと思います。

43年経ってのリユニオンでそれぞれ輝いている皆さまにお会いできて感激でした。あの頃の無我夢中で頑張っていた自分を思い出し、これからまたちょっと頑張ってみようかなと思っている今日この頃です。

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