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AFS15期記念論集巻頭言       萩原重夫

   私たちは1968夏から69年夏の1年間、米国の高校で学んだ。AFSという高校生の交換留学プログラムの第15期生として総勢116名が渡米したが、本サイトには、そのうち42名の体験記が掲載されている。

   北は北海道から南は鹿児島まで、日本各地から選抜された高校2年ないし3年生が、全米各地の様々な家庭(寄宿舎に投げ込まれた者も若干いる)に配属され、高校に通ったのである。高校は町に一つしかないのんびりした田舎の公立高校から、都会の荒れた高校、あるいは私立の進学校など様々だが、全員が非常に貴重な経験をした(すべて楽しい経験だったわけではなく、中には、非常に厳しく、辛いものもあった)。わずか1年の経験に過ぎないが、42名の体験記を読めばわかるように、その後の人生を決定づけたと言っても過言ではない経験だった。

   AFSは、American Field Service の略であり、元々第2次世界大戦中の米国野戦奉仕団として発足した団体である。戦後、あのような悲惨な戦争を繰り返さないための一つの手段として、日米の高校生の交換留学という素晴らしい計画を立て、実行したのである。高校という時期は、色々な経験を批判的に吟味できるだけ成熟しているが、大人ほど感受性が鈍くなってはいない、異文化を体験する好期だと思う。そうした、貴重な機会に恵まれたことについて、その実現に参加された多くの方に感謝したい。

   当時は1ドル360円という交換レートが示す通り、彼我の発展段階には大きな差があった。 米国は内には人種差別や、外にはベトナム戦争という大きな問題を抱えていたが、一般的な豊かさは、ほとんど日本の中流家庭から行った高校生には実感できた。例えば、平均的な家庭でも、自家用車2台、大型冷蔵庫、自動洗濯機、直ぐにお湯の出る流し、オーブン等、40年以上も前に普及していた。1969年にはアポロ11号が初めて人間を月に送り、帰国直前に全米が湧きかえっていたことを記憶している。

   しかし、物質的豊かさの反面、すでに高校生の間でも薬物使用が社会問題となり、M.L.キング師やR.ケネディ司法長官の暗殺など、暴力的な社会の在り方は根強く存在していた。(かなり後の1992年にも、同じAFS生の服部剛丈さんが射殺されるという事件が発生している。最近でも学校内等での銃の乱射事件が繰り返し起きている。)ベトナム戦争があり、反戦運動も行われ、世界的には学生の反乱が各地で発生していた時期でもあった。

   帰国後は、それぞれの進路に分かれたのだが、偶々当時CBS SONYに勤めていた田中章さんと会う機会があり、帰国後しばらく同期の人たちと会っていないので、同窓会をしようということになった。幸い、当時大学院生だった私には時間的余裕があり、また食べ歩きも好きだったので、幹事を引き受けることにした。

   第1回は新宿の「ルミエール」で行った。約30年前のことなので、現在のようにe-メールはなく、日本協会から名簿をもらって住所のわかる範囲の人に手紙を出した。第1回は20人近く出席したのではないかと思う。その後は、ほぼ毎年、春か秋にフレンチ、中華、イタリアン(ブラジルや韓国もあった)等と私の知っている店で同期会を行ってきた。少ない時は数名の参加者のこともあったが、それはまた、それでゆっくり話ができて良かった。

   途中からはe-メールが使えるようになり、アドレスを知らせてくれた人にはそれで連絡できるようになって、事務は楽になった。名簿も最初は幾島幸子さんが整理してくれ、それを定金生馬さんが(多分自分でやったのではないだろうが)エクセルファイルにしてくれた。
同期会の連絡をするたびに、住所等の変更や近況報告をお願いして、少しずつ、名簿を更新し、2011年の大きな同窓会につながった。
そのきっかけは、2011年の新年会を初めて名古屋で開催し、大阪から小松 基二さんが出席され、留学前のオリエンテーションの写真を配ってくれたことである。それが皆の記憶を呼び覚まし、田口雄司さんの幹事により、銀座での再会につながった次第である。
私が自主的に幹事を続けてきたのは、AFSが、特に同期の人たちとの交流が、私の大きな財産となっていたからである。

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