Welcome to AFS YP15

レナー順子

レナー順子

レナー順子 Junko Renner(旧姓 萩原)
Orestimba High School
Newman, California

2、3日前偶然AFS 15期生のホームページを見つけた。興味津々、投稿文を読ませて頂き、Bus Tripもクリックしてみると、なんとBus#8 のルートや写真ではないか。小林さんと私のバス!忘れていた記憶が走馬灯のように浮かび上がって来た。
ドイツに住んで38年、気付いてみたら、こちらで生活する年月が、日本にいた時よりずっと長くなってしまった。お陰さまで、平穏無事で元気にしているが、子供達が成長するまで、無我夢中であまり過去を振り向く時間がなかったような気がする。
同じ年に一年間をアメリカで過ごしたという共通点はあっても、116名もいたので、名前と顔が一致しない人が多い。私の記憶力もいい方ではないので、仕方ないが、何回かのオリエンテーションや同窓会等では,このような形での経験談を交換する機会はなかったように思う。早く日本を出てしまった事もあり,日本のAFS及び同期生との音信は残念ながら不通になっていた。このようなホームページができたことは、素晴らしい事だと思う。萩原重夫様はじめ関係者の方に感謝の念がたえない。
皆様の投稿文だけ読ませて頂いては申し訳ないので、私のAFS経験談も添付させて頂きたい。
1.AFSに応募した動機と合格までの経過
  小学校の頃まで、近くにアメリカ軍基地があった。そこは塀に囲まれ、住民との接触はほとんどなく、子供の私にとって、未知の世界だった。その中には話に聞いたり、メデイアで報道されている豊かな国の人が住んでいると、そばを通りながら子供心に憧れの念を持ったものだった。中学生から英語を習いだし高校に進むと,益々英語が好きになり,その言葉を使っている国に行ってみたいと思うようになった。学校の英語の教科書は,私達の年度から、英国英語を基盤にしたJack & Betty からアメリカ英語のTom & Susieに変わり、私にとっては英語=アメリカだった。行ってみたいとは思っても、私費で行く事等現実では考えられず,問題外だった。そんな所AFSの事をある雑誌で読んだ。何回も試験があり、難しそうだが、受けるだけ受けてみようと思い、まずは両親、それから学校の先生に相談した。 私の高校は進学校ではあったが、それまでAFS留学生は一人もいなかった。にもかかわらず私が相談すると、賛成して下さり、推薦状を書いて下さったり、色々な面で応援して下さった。
  運良く筆記試験に合格し、口頭試験、デイスカッションの日時が決まった。皮肉にも修学旅行の期日と重なってしまい,そちらの方を断念することにした。人前に出て意見を述べる等、経験もなくとても不安だった。デイスカッションの題ははっきり覚えていないが、誰も口を開かなかったので、私が最初に発言してみた。その後何度発言したか等ほとんど覚えていないが、私の意見の後、試験官の方が、「はい、それで結論が出たようですから、ここまでにします。」とおっしゃったのは、今でもはっきり覚えている。本当に運が良かった。
2。磐梯山の麓でのオリエンテーションから出発まで
  いよいよアメリカ行きが決まり、受け入れ家族も決定。オリエンテーションにも参加。ただ無我夢中でその時のことはほとんど覚えていない。当時の記念写真や日程表はとても懐かしい。丁寧に取っておいて、ホームページに提示して下さった方に感謝の念で一杯。あの時の飛行機の切符や機内食のメニューを再度目にできるとは、思ってもみなかった。
  当時は飛行場は羽田で、給油のため上陸した最初の合衆国領土がホノルル。そこで入国審査があった。レントゲン写真を提示しながら通過した事は今でも覚えている。
3。ホストファミリー
  スタンフォード大学でのオリエンテーションが終わると,ホストファミリーが迎えに来てくれた。英語能力不足と興奮のため,車の中でほとんど口をきけず、何か聞かれても、イエス,ノーで答えるのがやっとだった。
  ホストファミリーは,父親、母親、一歳年上のリンダ(16歳)、4歳年下のスーザンと8歳下のアネットの5人家族。すぐDad、Momと呼ぶようにと言われ、家族の一員として受け入れてくれた。Blacky とLadyという飼い犬も2匹いた。アパート住まいで動物を飼った事がなかったので、始めはとまどった。
  私の部屋は2階で,リンダの部屋との間にそれぞれの部屋から入れるバスルームがあった。日本でも狭いなりにも自分の部屋はあったが、畳敷きで全然雰囲気が違い,なんだか急に別の世界に入り込んだ気がした。部屋は毛布とタンスがピンクで絨毯が淡いブルー、壁紙がその色に合わせた花模様だった。私の到着前に用意して下さった。お伽話の世界にでも来たような夢心地になった。
  ところが2日目に,タンスの上においてあった鏡が、引き出しを閉めた時の反動で落ちて、壊れてしまった。せっかく念入りに用意して下さったものを到着早々壊してしまい、申し訳ないやら,恥ずかしいやら,一瞬どうして良いか分からなくなった。鏡が壊れるなんて,縁起が悪いのではないかという考えも頭をかすめた。幸い特にとがめられる事もなかった。ドイツでは,結婚式の前日に古い陶器やガラスを山ほど運んで、新郎の家の前でたたき壊すという風習があるほどで、そういうものを壊すのは、幸運を呼ぶという意味だと、随分後になって分かった。
  Dadはニューマンで自動車販売及び修理店を経営していた。趣味は飛行機操縦で,自家用飛行機も二台あり、私も何回か空の散歩に連れて行ってもらった。本職だけでなく、地元のロータリークラブで活動したり,市議会議員や,後には、市長を何期か務めた。その功労がたたえられ、公園は彼の名がつけられ、彼の名前のついた道路も2本ある。5年前に新しく出来た小学校の名前も彼にちなんでつけられた。
  非常に働き者だったが、それが災いして、私がお世話になって2ヶ月後に脳溢血で倒れてしまった。一時はAFS地域責任者が,他の家庭への移動を提案したが、幸い軽くすみ、回復も早かったので,家庭変更は免れた。
  Mom は専業主婦で,私達の面倒を良く見てくれた。私達4人の娘に洋服を買ってくれたり、ワンピースやスカートを縫ってくれた。新しい服を着て学校に行くのはとても楽しかった。あまり厳しい事は言わなかったが、友達が迎えにくると、それとはなく話しをしながら、タイプや性格を見極め、私に悪い影響がないよう,いつも気を配ってくれていたように思う。
4.ニューマンの町
  サンフランシスコから南東に約150km。人口2400人ののんびりした片田舎。大きな農場も多く、トマト、インゲン等の野菜やクルミが栽培されていた。
  私のホストファミリーのように北欧系とポルトガル系の白人が多く、メキシコ系も少しいた。アジア系は、町でスーパーマーケットを経営していた中国系の大家族だけだった。
  小さい町で、住民は皆顔見知りといっても過言ではない。町新聞もあり、生死のニュースから,学校行事等何でもそれに載っていた。私も写真入りで何回も新聞に載った。町を歩いていると Hi,Junko!とあちこちから声をかけられた。
  ニューマンだけでなく,ずっと大きな町へ車で買い物に行っても、車にロックしないのが,腑に落ちなかったのを思い出す。それほどのんびりした環境だった。
5.学校
  学校が始まると,まずはホームカミング。そのパレードには,留学生として、浴衣を着て、オープンカーに乗ってパレードに加わった。その日は朝から妹とお化粧をしたり、美容院で髪をセットしてもらった。決められた制服で真面目に登校していた日本の学校生活とは段違いだったが、面白さも加わって、すぐ順応した。ちょうどミニスカートがはやりだした頃だったので,日本から持って行ったスカートは、すぐ短く縫い直した。
  生徒数は9年から12年まで360人、これもこじんまりした学校だった。選んだ科目は、アメリカ史、家庭科、カレッジイングリッシュ、音楽、スピーチ、タイピング、体育。始めは家庭科の代わりに数学をとっていた。一年数学を勉強しないと,日本での受験に不利になるかと思ったからだ。一番程度の高いクラスだったが、日本の高校一年程度の事をやっていたので、結局は変更した。
  音楽はちょうど12時を挟む時間帯だったので、毎週火曜の12時には、校長先生が私を迎えに来た。ロータリークラブの会合に出席するためだった。
  音楽は皆が楽器を弾き、パレードで弾く曲を練習した。演奏会もあり、私は小さい頃からピアノを習っていたので、ピアノのパートを引き受けていた。長く習ってはいたが,才能があった訳ではなく,どんな風に弾いていたか、今思うと,恥ずかしくなる。映画音楽のアパートメントのテーマをバンド演奏をバックにソロでひかせてもらった。それまでのリハーサルも楽しかったが、本番ではちょっとしたピアニスト気分に浸る事が出来た。
  週末は,スポーツの対抗試合を見に行った後、ダンスパーテイーに行くのが通常だった。
  最初の3ヶ月は,話す,聞くが思うようにならず,時にはホームシック気味になった事もあったが,時がたつにつれて慣れ、いろいろなロータリークラブや婦人クラブでスピーチをたのまれた。
  学校での行事に参加する他、年度の後半にはインターナショナルウィークエンドと呼ばれたものが2週間おき位にあった。近辺の学校に各国からの留学生が一つの学校に招待され、自分の国を紹介するものだった。ギター演奏をする人もいれば、スライドを見せた人もいた。私は浴衣をきて、さくら、さくらの日本舞踊を踊った。アメリカに向かう前に2、3ヶ月で即席で覚えたので、今になってみると,良くあの程度で人前で踊れたと顔が赤らんでしまう。
  学年末のPromやSenior tripも良い思い出になった。ただSenior tripには、一つのほろ苦い思い出がある。楽しくサンフランシスコを観光した後、皆で未成年には禁止されているビールを手に入れ,途中の公園でビールパーテイーをした。禁止されているものに魅力を感じるのは,人の常なのかもしれない。それまで一滴もアルコールを飲んだ事のない私は,少量にもかかわらず、非常に気分が悪くなってしまった。その事は小人口の町ではすぐ知れ渡り,次の日には知らない人が居ない程だった。それ以来今まで、ビールは飲もうとは思わない。そういう私がビール大国のドイツに住んでいるとは皮肉な物である。
6.最後に
当時のホストファミリー、クラスメートやバス旅行で親しくなった友達とは, 今までずっと連絡をとりあい、会ったりしている。Class Reunionにも何回か参加した。子供達は、スカイプやFacebookで繋がっている。半世紀ほど前に始まった人間関係が何世代も続くとは,想像もしていなかった。
私の生涯はあのAFSの一年をなくしては考えられないと思う。いろいろな人に巡り会い,視野が広がったと思う。多感な大人になる前の時期にこういう体験が出来た事は、私にとって掛け買いのない財産だ。こういう経験を可能にしてくれた数々の方々に感謝の念がたえない。
  6年程前からNHKラジオ深夜便ワールドネットワークで一ヶ月に一度15分程生放送で,主婦の目からみたドイツ、特にバイエルンの風習、ドイツ人の日常生活、日本とドイツの繋がり等をお伝えしている。 日本のリスナーの方に興味を持って頂けるような話題を見つけられるよう努力しているが,探しながら珍しい事実に出会ったり,自分の勉強にもなり、楽しい事が多い。  
                               以上

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