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米田保晴

米田保晴

米田保晴

Grandview High School
Grandview,Washington

AFS体験と私の人生

1.AFS体験(1968年8月~1969年7月)

(1)スティムソン・ファミリー
 1968年8月から1年間、私を家族として受け入れてくださったスティムソン(Stimson)・ファミリーは、当時両親ともに50才で、Dad(父)は、グランドビュー市の中心街で洋服店を経営しておられ、Mom(母)は、中学校の数学の教師でした。子供は男ばかり3人。三男のブルースが私と同じ年で高校三年生、長男はベトナムで兵役についており、次男は、既に結婚して家庭をもっていました。
両親ともにアイルランド系で、Momは真摯なカトリック教徒でした。毎週日曜日は礼拝に通っておられ、私も毎週一緒に行きました。私自身はクリスチャンではありませんが、Momとともに行く教会は楽しみでした。当時ミサはまだラテン語でした。Dadは、包容力のあるとても優しい人でした。プロテスタントでしたが、教会にはあまり関心がないようでした。
二人はモンタナ州の大学生の時に知り合い、Dadは結婚直後に第二次大戦の兵役につきました。敵国だった日本からのAFS生を受け入れることになったときには、複雑な思いがあったはずですが、MomとDadは、快く優しく私を受け入れてくださいました。

(2)グランドビュー市とグランドビュー高校
私が高校3年生として1年間過ごしたグランドビュー市は、ワシントン州の中央、シアトルから約200キロメートル東に位置する、人口3500人くらいの小さな市です。日本にも輸入されている、ワシントン・アップルやワシントン・チェリーなどを生産する農業地帯で、小規模な商店街と住宅地の周りは、一面、果樹園でした。
そのグランドビュー市で唯一の高校が、私の通ったグランドビュー高校です。1学年約125人の規模で、メキシコからの季節労働者の子弟が一部通っていたほかは、ほとんどの生徒が互いに小学校からの幼ななじみでした。
 
(3)グランドビュー高校での生活(1968年8月~1969年6月:18歳)
グランドビュー市では、「グランドビュー・へラルド」という新聞が発行されており、その新聞で、私がグランドビュー市に着く前に、日本からAFS留学生が来ることが私の顔写真入りで既に紹介されていました。その後も、「ハル、生まれて初めてのフットボール観戦」、「ハル、アメリカのクリスマスを楽しむ」などの記事が、月に一度くらい掲載されました(私は、「保晴」の後半をとって、「ハル」というニックネームで呼ばれていました)。
到着直後の1968年8月は、モンタナ州にあるMomとDadの実家を訪ねて親戚に紹介されたり、乗馬、モーターボートなどを初体験したり、グランドビュー高校の同級生たちが近郊を車で案内してくれたり、様々な家庭に招待されたりして、あっという間に過ぎました。
9月にいよいよ学校が始まりました。授業科目は、あまり負担にならないようにと、英語を身につけるための科目(アメリカ文学、スピーチ、タイプ)とアメリカ史の他は、得意な数学と美術にしました。とはいっても、「アメリカ文学」では、アメリカ人作家によるペーパーバックを1~2週間に1冊は読んで感想を述べなければならないし、「アメリカ史」では、アメリカ憲法を覚えなければならないなど、当初、勉強はかなり大変でした。
しかし、学校行事には全て参加することにしていました。アメリカン・フットボールの試合は遠征も含めて全部応援に行き、その後の深夜まで続くダンス・パーティー(高校の体育館を使ってのものですが、生バンドもミラーボールもある本格的なものでした)にも、ほとんど参加しました。まさに、日本の高校生活では想像もできない体験の連続でした。
クリスマスには、両親が沢山の衣類に加え、日本への電話をプレゼントしてくれ、半年ぶりに日本の両親と話し、不覚にも泣いてしまいました。
また、半年過ぎた頃から、教会やライオンズクラブ等に招かれての日本紹介スピーチも始まりました。グランドビュー市には当時16の教会があり、その全てに招かれてスピーチをしたと思います。
冬になるとレスリングのチームに入り、春にはテニスチームに入りました。科学クラブにも所属し、クラス委員にもなりました。早朝のアスパラガス収穫などのアルバイトも経験しました。プロム(prom)では、タキシードを着てフォーマルなデートもしました。
1969年6月の卒業式では、全校生徒の前で、涙をこらえて、お別れと感謝のスピーチをしました。また、様々な体験と勉強を両立させたいと努力していただけに、オーナー・ロールの一人として名前を読み上げられたときには、喜びがこみ上げてきました。卒業アルバムには、友人たちとの多くの写真の他に、わざわざ私だけの頁が設けてありました(添付写真)。
卒業直後の私の誕生日には、兄弟のブルースがこっそり計画して、市のプールを借り切ってのサプライズ・パーティーをしてくれました。何十人もの友人に囲まれ、大きな誕生ケーキを前にして、スティムソン・ファミリーの家族として、そしてグランドビュー市のAFS生として受け入れてもらった幸運に感謝しました。

(4)バストリップ(1969年7月:19歳)
アメリカ滞在の最後の1ヶ月は、西海岸から東海岸まで、文字通り大陸横断のバス・トリップでした。 アメリカ西北部で1年間を過ごした世界中からのAFS生20数名が集まり、1台のバスで、何箇所かで、その土地の高校生やAFS関係者と交流しながら、1ヶ月かけて首都のワシントンDCにたどり着きました。バスの仲間は生涯の友人となりました。
湖上のボートで眺めた独立記念日の花火や、ワシントンDCの近くの豪邸で催されたパーティで、人類が月に始めて降り立った瞬間をテレビで見たことなど、あの1ヶ月は夢のような日々でした。

(5)私が学んだAFSの精神
渡米前のオリエンテーションで、「少なくとも最初の3ヶ月間は、アメリカの生活に批判的になるのではなく、アメリカ人と同じ体験をし、理解するように努めなさい」というアドバイスをいただきました。私は、それを忠実に守りました。
例えば、高校生が化粧をし、深夜までダンスに興じるということは、当時の(私の知っていた)日本の高校生活とはあまりにも違っていました。が、中に入って当事者の一員として同じ体験をすると、アメリカの高校生には、日本とは別のモラルも秩序もあることが分かりました。
「批判する前に、まず相手の立場に立って考え、相手を理解せよ。」それが、その後も、私の人生の指針になっています。

''2.その後の人生(1969年8月~2011年10月:19歳~61歳)とAFS体験
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(1)AFS体験で知り合った人々との交流
グランドビューのMomとDadには、その後何度も家族ぐるみで会いに行きました。家族全員で集まった際には、ブルースや兄たちの子供たちと我が子たちが、一緒にプールではしゃいでいました。MomとDadが南米旅行の機会に、ニューヨークに訪ねて来てくれたこともあります。両親はともに1990年代に亡くなりましたが、私は、どちらの葬儀にも出席することができました。
兄弟のブルースは、大学生時代に一度ひとりで、その後妻のナンシーと娘二人とともに日本を訪ねてくれました。また、昨年の私の娘の結婚式には、三度目の来日をし、親戚として出席してくれました。
ブランドビュー高校の友人や先生方とは、リユニオンで会った他、彼らが来日する機会に会ったりしました。パイロットになった同級生が、数時間の空き時間を利用してニューヨークで勤務していた私を訪ねてきてくれたこともあります。
バストリップ仲間の、タイからのAFS生とは、大学生時代にバンコクで会いました。バスのシャペロンだったアメリカ人大学生(男性)と結婚したフランス人AFS生(女性)が、1990年代前半に私の日本の家を訪ねて来てくれたこともあります。 我々のバスの企画運営責任者だったメリーランド州の夫人とは、その後何度もお宅を訪ねたり、先方も私に会いに日本に来てくださる仲となりました。

(2)私の人生の基礎を築いたAFS体験
 私は、17歳まで富山県高岡市という日本の地方都市で育ち、18歳で、全くそれまでの人生とは異なる、米国ワシントン州グランドビュー市という、空間的にも精神的・文化的にも不連続な世界の体験をしました。私の生活や思考の範囲はそれによって飛躍的に拡大し、その後の私の人生は、その礎の上に築かれてきているといえます。
 大学での私は、自然にESS(英会話クラブ)、AIESEC(国際経済商学学生協会)、現代国際法研究会など、英語を使って国際的活動をするクラブに入っていました。卒業後社会人となった私は、銀行員として国際金融業務に携わり、20カ国以上の国を訪れ、様々な国の人々と交流をし、仕事をしてきました。アメリカ生活は、AFS留学:1年、米国ロースクール留学:2年、2回のニューヨーク勤務:13年と、合計16年間になります。この間、言葉の面でも、精神的・文化的な面でも何の違和感もなく過ごせたのも、その基礎にAFSの体験があればこそだと思います。

(3)そして今
 2001年9月11日の同時多発テロをニューヨークで体験したことも一つの契機となり、
残りの人生を教育者として過ごしたいと思い、2004年から日本の法科大学院の教授として法律を教えるようになりました。
法律の分野は、他の学問分野と比べ、まだまだ真の国際化が遅れているように思います。外国人ロイヤーとの交流や法律書の翻訳を超えて、AFS体験をこの分野でももっと活かすことはできないか、今模索しているところです。
                                     以上

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