Welcome to AFS YP15

澤田敏子

澤田敏子

澤田敏子

Alta Loma High School
Alta Loma, California

おそれからあこがれへ
    
  小学校一年生の一学期から始まったアイルランド人のシスターと日本人の先生による週3回の英語の授業は、私にとって形容しがたい恐怖の連続だった。英語の歌を歌ったり、数を数えたりしていた幼稚園時代のほのぼのとした楽しい時間は過ぎ去り、その代わり教科書と単語トランプカードが配られた。シスターや先生 の指示する内容は全く理解できず、そのうち英語の授業になるとすべての音が消えてしまったような気がした。少しずつ私は不登校気味になり、通信簿の点は ずっと“2”のまま3年生になった。

 ある日、パキスタンやイギリスからからの帰国子女がクラスに編入し、彼女達が流れるような美しい英 語でシスターと物おじもせず、うれしそうに話をしているのをはじめて見て「?」と思った。外国に住めば日本人でもこんなことが可能なのかと思い、この頃か らすこしずつ英語の授業が怖くなくなってきた。

 六年生になると、ある日“C.I.S.V.”(Children’s International Summer Village)という夏のキャンプに参加しないか?という紙が配られた。そこには11歳という年齢においては英語はコミュニケーションには必要ではな く、子供たちは言語を超えてお互いを理解しあえると書いてあった。それを確かめたくて一ヶ月間私はそのキャンプに参加し、実際にオランダやオーストリアの 子供たちととても仲良くなり、なぜか相手が何を言いたいかも理解できた。しかし同時に英語が母国語の子供たちが自然とリーダーシップをとっている現実を見 た。もう英語は恐怖ではなく、興味深い科目になった。中学生になると友人からもらった、C.S.Lewisの“The Lion, the Witch and the Wardrobe”にのめりこんだ。そしていつの間にか色々な科目を英語で学んでみたいという気持ちを持ち始めた。その頃いとこからA.F.S.で一年間 アメリカの高校に通った話を聞いたせいかもしれない。そしてあこがれのA.F.S.の試験を受けることが高校生になる前から私のひそから目標となった。

<出せなかったThank You Notes>      

ホストファミリーのConger家は、ロサンゼルス空港から車で東に2時間くらい行ったAlta Loma市に住んでいました。玄関の向かい側には平原が遠く広がり夜になるとコヨーテの遠吠えが聞こえました。

Dad!   
  ユタ州に行く途中キャンピングカーでLake Tahoに行き、水上スキーを教えて下さって本当にありがとう。足にボードをつけ半分水の中に身をしずめドキドキして待っているとゆっくりと力強く水の上 にモーターボードでひっぱりあげられ、気がつくと湖の上を風を切って走っているという経験はどこか気がつくと英語がわかるようになっていた感覚と同じく爽 快な気分でした。
 その後、ソルトレイクシティにあるモルモン教徒の寺院を見せて下さり、現在の自分達だけではなく祖先までモルモン教徒に改宗さ せることが出来ると教えて下さいましたが、それは祖先の方々への愛のためなのでしょうか? ほこらしげに説明して下さるあなたに質問できませんでした。食事の時間も決まっていなく、家族でテーブルを囲んで食事をしないConger家のやり方にとまどっていた私にほとんど何も入っていない(タンパク質が)冷蔵庫を開け、アボガドサンドイッチをやさしく作ってみせて下さって本当にありがとう。初めて食べるアボガドに「ウっ!」ときましたが、ニコニコしているあ なたをうらぎることはできず牛乳で必死に飲み込みました。多分Dadがいらしたからファミリーチェンジをする気持ちになれなかったのだと思っています。たくさんの優しさをありがとう。
 P.S. でもご存知ないでしょうがあなたが第二次世界大戦のテレビ番組を見ている時に「何てバカなやつらだ(アメリカ人の兵士達のこと)!あんなJapの女達と結婚するなんて!」とののしっているのを私は聞いてしまいました。

Mother:   
 モルモン教の信仰について詳しく教えて下さってありがとう。
  カトリックの私はあなたの期待にどうしてもこたえることは出来ませんでした。今でもあなたが寂しそうな顔をしてじっとこちらを見ていたことを思い出すと胸 が痛みます。私はどうしてもあなたからあたたかさを感じることが出来なかった。いつも何かをじっとがまんしているようなあなたはきっととてもまじめな方 だったのでしょう。最後に別れる日まで、”Mom!”と呼べなくてごめんなさい。私には大きなモルモン教の聖書をもって「Toshiko! よく聞いて。黒人の皮膚が黒いのは昔、大罪をおかしたからなのよ。」と真顔でおっしゃったあなたを”mother”と呼ぶのが精いっぱいでした。日本で見 ていたアメリカのホームドラマに出てくる母親とは違っても、たくさんのことを学ばせてくださって本当にありがとう。

Lorraine:  
  Seniorの中でもとても行動的なあなたは私がAlta Lomaに着いた翌日からチアリーダーの仲間やそのboyfriends達とラジオを大音量にして、車をとばし、いろいろな場所を見せに連れて行ってくれ ましたね。モルモン教徒のサマーキャンプに一緒に行った時も、私に「一人で何でもしてよね!」と言ってさっとどこかに消えましたね。おかげで私は誰にも頼 ることが出来ないこと、自分の方から動かなければ、何も始まらないこと、いつまでもguest気分でいては得るものが何もないことになると悟りました。あ なたは私と話す時は、決してゆっくりしゃべることはありませんでした。たくさん質問してくれたのはうれしかったけれども、その質問自体をやっと理解して答 えようと思った時には、すでに2つぐらい先の話題になっていて、あなたは笑いながら通りすぎていくというパターン。あなたはきっと外国人の留学生がちょっと負担だったのかも知れません。
 9月に入って学校が始まる前になると、学校に着ていく服と靴の色が合っているかどうかチェックが入り、ラメ入りのマニキュアをしていくのが流行だということ、学校では私と一緒にいられないから一人でがんばること、音楽、男の子のこと、金曜日の晩のダンスの時に壁の花にならない方法、すなわち勉強以外の数え切れないほどのたくさんのアドバイスをありがとう。2月頃からやっとあなたの言っていることを理解できるように なり時には、言い返すようになってくると心から嬉しそうに笑ってくれましたね。でもテーマはいつも「男の子達、パーティー、ファッション」でした。チアリーダーのあなたは私が日本では決して付き合えない派手なグループの人でした。

優しい姉達:Joy(20歳)とJill(18歳)  
Joy:  
  MotherにPromのためのドレスが留学生にとってどんなに思い出深いものになるかと説明して下ってありがとう。着物を着ていけばいいと思っていたの で大きな箱に入ったレースのpowder pinkのふわっとした長いドレスを見た時は夢かと思いました。Promの前には、髪の毛をセットして下さって数々の注意をして下さって本当にありがと う。あなたが注意して下さったおかげで楽しいわくわくする晩が過ごせました。

Jill:  
9月から6月まで勉強の分からないところを根気よく適切に教えて下さってありがとう。どうしても英語が聞き取れない時はどうすればよいか、自信をつけるに は内容全部が理解出来なくても耳に入った単語や内容が想像出来た文章から全体をイメージして考えこむことなくどんどん先に進むこと。そして勉強に楽しく取 り組めるようになると今度はもっと深く内容を理解し、時には高度な英語で文章を書くための努力をするように優しくアドバイスして下さったこと。あなたの教え方は学ぶ者にいつも希望を持たせてくれるものでした。心から感謝しています。

David Conger(16歳)とRaymond Conger (8歳):  
私 はあなた方二人の弟が出来てうれしくてぞくぞくしました。でも私の英語は8歳のRaymondが必死で説明してくれるゲームの意味さえ分からずDavid に自分の立場の説明も、私は中国人ではなく日本人であり、使っている言語も違うということすら伝えることが出来ませんでした。あなた達がひっきりなしに話しかけてくれたおかげでホームシックになって泣くひまもなかったわ。

Alta Loma High Schoolの先生方、職員の方々:  
  Alta Loma High Schoolにとって私が初めてのA.F.S.生だということはしばらくして生徒会のメンバー達から「もっと我が校初の留学生を大切にするべきではない か」という意見が出て、はじめて知りました。他の国からのA.F.S.生もいなかったので最初の頃は、昼食も一人で食べ、Cafeteriaに入っていく のがとてもこわかったことを覚えています。昼食代は自分で払わなければならなかったのでCafeteriaで働く代わりに昼食をただで食べさせてもらい 色々なお料理を学生達が差し出すお皿につぐことで孤独から解放されました。
 はじめて全校生徒の前でスピーチをするように言われた時、今でも何を話したか全く覚えていないのですが、終わって講堂を出る間に色々なところから発せられた“Jap!”という声や“Geisha girl!”という声だけはしっかり耳に残りました。

Mr. Anderson:  
アメリカで受けた初めてのあなたのU.S.Historyの授業では2つ驚いたことがありました。ひとつは教室に飾ってある国旗に向かって忠誠心を誓う感動的なシーンでした。歴史がが浅く人種のるつぼのような国ならではのとても感動的な場面を目にしました。もうひとつは、あまりの宿題の多さに(初日だというのに、始業式もなく)皆と同じように扱われたことに感謝しながら、内容確認のため前の席に座っている女の子に声をかけるとふりむいた彼女は何と妊娠中。うれしそうに彼女は結婚していてもうすぐママになると教えてくれました。

Mrs. Patene:  
カウンセラーからバレーボールをするという話しを聞いて取ることを決めたP.E.のクラスでしたが、初めての授業ですぐにペーパーテスト。その場で大きく “F”と書かれ、私は頭にきて「自分は日本から来たばかりでこんなに詳しく書いてあるルールに対して英語でどう答えを書いたらいいのか分からないので“F”はひどすぎる」と言うと、あなたは「私は全ての生徒を公平に扱うことが正義だと思っている。あなたも他の生徒と何も変わらない。」とにこりともせずにおっしゃってくれてありがとう。この時から「こんなことで負けるものか!」という闘争心が芽生えました。

Mr. Rhodes:  
American Governmentを詳しく教えて下さってありがとう。全ての先生の中で一番分かり易く難しいところは授業の後に詳しく教えて下さってありがとう。 “パールハーバー”のときも“ヒロシマ、ナガサキ”のときも淡々とアメリカ側の意見をおっしゃりさすがにその晩は隣町の高校に来ていたドイツ人の A.F.S生と長電話をしました。バス旅行に出発する前、セロリーが入った“スキヤキ”を作って下さって日本に敬意を表して下さったあなたの気持ちがとて も嬉しかったです。

Mrs. Pavy:   
 Senior Englishは難しい授業でしたが先生のおかげで、大学で英文科に入りたいという目標が出来ました。Term paperの書き方も本当に勉強になりました。Virginia WolfやEmily Dickinsonが好きになったのはあなたの影響だと思います。あまりの宿題の多さに何度も今日は無理だと言いに行った私に、thesisの書き方を根 気よく教えて下さってありがとう。Footnotesの書き方は新鮮でした。でもMrs. Pavy!どうしてあなたはわざわざ男の子の前で足を組んで机の上に座ったり、「Tom!今日私ワンピースのファスナーを半分しか上げないで来ちゃったわ。上げてくれる?」となやましい声でおっしゃったのでしょう。もちろんTomは胸を押さえて「My pleasure!」と言って飛んで行きましたよね。あなたのクラスでたくさん読まされたシェイクスピアの作品より印象に残りました。

Mrs. Butts: 
  あなたが一年を通してまるでアメリカでのお母さんのように私に接して下さったことを何て感謝したらいいのか分かりません。図書館で宿題をしなさいと言って、次々とたくさんの人達に紹介して下さり、最初は自分とは全く関係ないといった雰囲気のよそよそしい人達があなたのおかげでどんどん親しく接してくれる ようになり、卒業間近にはキャーキャー笑う友人達に変わっていきました。私があり得ないことにすべてのPromに誘われたのはあなたがうらから手を回して下さったおかげだと確信しています。もう二度とあなたの優しい声が聞けないほど悲しいことはありません。

そして友人達:  
  9月に学校が始まって一番厳しく感じられたことは、友人になりたいと思った人達とコミュニケーションが成り立たないことでした。明らかに17歳という実年 齢で見られることはなく、いつも心の中で私はあなた方とちっとも変わらない高校生だとアピールしたいと思っていました。もし何かを尋ねてきたらなるべく即 答したい、答え方もストレートではなく少しsarcasticに言ってみたいと身の程知らずの考えで頭がいっぱいでした。

Kathy Bouch:  
 真っ先にニコニコと近づいて親しくしてくれて本当にありがとう。金髪のあなたはいつも微笑んでいたhomecomingのqueenでした。いらいらもせずゆっくり私のたどたどしい英語を聞いてくれてありがとう。親切なあなたに心からお礼を言いたいと思います。

Judy: 
  あなたはトイレでいつもたばこを吸っていましたね。見張りを3人たてて、先生がすごい勢いでトイレに駆け込んでくると、さっと口にくわえていたものを床に 落とし、「今床の上にある物体は一切私と関係ありません。」とはっきり宣言するあなたを通じて現行犯で捕まえない限り、たばこもマリファナも他のドラッグ も取り締まることが出来ないアメリカの高校の実態に驚きました。

バス旅行で出会った人達:  
  ロスの近くからワシントンまでのバス旅行ほど楽しい経験は二度と出来ないでしょう。日本人は私だけだったので自由にありのままの自分でいることができまし た。私同様、ホストファミリーとの最後の別れで涙でびしょびしょになっていたオーストリアからのSussanneとはすぐに意気投合しました。彼女はチリから来たMarioにのぼせ、私はスペイン人のRaoulというプレイボーイにひっかかり、フランス人のAlanに助けられた時には、SusanneとMarioもカップルになっていました。毎日毎日バスの中では“ラバンバ”と“グゥアンタラメラ”そして“Le Monsieur President~”で始まるフランスの反戦歌の合唱が繰り返されていました。(今年親切なD.J.Kさんのおかげで42年ぶりに再び懐かしいこの曲を歌詞つきで聴くことが出来感激して一気に若返りまし た。)バス旅行の間に泊めて下さった多くのアメリカ人の方々に、私達が騒ぎすぎてご迷惑をかけてしまい、A.F.S.生はスポイルされすぎていると注意を受けましたが私達のバス#15だけだったでしょうか。

<帰国後>  

  A.F.S.の一年という貴重な体験から得たエネルギーは上智の二年生までは続きました。だんだんと周りの学生達から浮いてみられたくないという気持ちが 出てきてあの一年間の思い出や活力を心の底からシェアできる友人を作ることは不可能だと思い込みました。A.F.S.という言葉も聞きたくなくなり、心の中の引き出しに全てを入れてしっかりと鍵をかけたくなりました。結婚して1975年から11年間、アメリカ、ドイツ、フランスで駐在員のまじめな妻としてA.F.S.とは無縁な生活を送ろうと努力しました。

 米国での5年間で長女をさずかり、幼稚園に送り迎えする時の車の中で一緒にあれこれ英語で話したり歌ったりしたことは本当に楽しい経験でした。かわいい子供の英語や発音に心が和み、ストレスが多かった日本人同士のお付き合いの中で何よりの救いとなりました。上司の奥様方のお手伝いやご指導を仰ぐ傍らで近くの小学校のESLのクラスのアシスタントになりました。日本から来たばかりで英語が分からず毎日いじめられて泣きじゃくっている二人の兄弟の英語を手伝いました。ホストシスターのJillが根気よく教えてくれたやり方をまねてみて彼等が少しずつ笑うようになっていくのを見て幸せな気持ちになりました。

 米国の後、3年半ドイツにその後2年半はフランスにてまた駐在員の妻として暮らしました。次女はフランス語をきれいに話せるようになり、長女はLycee International のドイツ語セクションに入りドイツ人の子供達とフランス語を学びました。面白いことにドイツにいた時の長女の英語はアメリカ人そのものの発音が残っていましたが、フランスに住んでしばらくするとすぐにフランス人なまりのある英語になってしまいました。

<現在>   
  自分の子供達や私自身の体験を通じて帰国後、主人の両親と同居しながら英語が苦手な子供に英語の楽しさを教えることを始めました。どんなに英語が嫌いで拒否している生徒でも学び方次第でいつの間にか自然と希望を見出し自信をつけていく過程を見ることはこの上ない喜びで私に多くの勇気をくれました。

  高齢の父と思いがけなくアルツハイマーになった母について毎日悲しい思いをしていた時も車の中でCDを大音量でかけ、号泣して「A.F.S.のあの一年間 が耐えられたのだから負けるものか!」と思いながら、同時にA.F.S.でアメリカに行くことを許してくれた両親に感謝しました。

 母は、私のことが分からなくなってからも若いころ、6年間父と過ごしたNew Yorkで身に付けた英語は忘れませんでした。幸せそうに公園で外国人を見かけると英語で話しかける母を見て、言語は残るのだと思いました。その英語をスポンジのように吸収していく若い生徒達のうれしそうな顔を見ることはとても励みになりました。何よりうれしいことに正確に数えてみると、この25年間に次女を含めて8人の教え子達がA.F.S.の後輩になり、社会の色々な現場で活躍しています。若い時、自分の家族から離れて一年間外国で暮らした経験は全てのことを自分の判断で決めなければならないことを彼等に学ばせ、彼等に責任感を持たせ、私自身を含め“うたれ強く”したと思います。今後もA.F.S.の 貴重な経験を一人でも多くの生徒達に味わってもらうために地味に努力を続けていきたいと思っています。

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