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若井真知子

若井真知子

若井真知子

モンテヴィデオ ハイスクール
ミネソタ州 モンテヴィデオ               

過去を振りかれるとか、郷愁の年に浸るとか、といったことに全く縁がなかった、私が人並みに昔を思い返すようになったのは、50歳を過ぎ、父を失った4年ほど前からでした。AFS奨学試験を受けることを相談した時、父は、『試験を受けても良いが、アメリカ留学はもってのほか…』と、厳しい顔をしました。『まさか受かるとは・・・』と決め付けていた両親、きっと母が父を宥めてくれて、渡米することが出来たのだろうと、今になって思います。

【アメリカへの道】
私が海外に興味を持ったのは、母方の祖父がある日、正装で座敷に座って話をしている相手が、祖父の竹馬の友で、若い頃家族全員を肺病で失い、湿気の多い寒い新潟では自分も肺病になって死ぬしかないと、一大決心してカリフォルニアに移民し、洗濯屋を開業し成功した方であることを、聞いたのがきっかけだったように思います。その後、中学で英語を習うようになって、同級生の間でアメリカの方との文通が流行りだし、祖父にせっついて、この鈴木さんとおっしゃる方のお孫さんでサンフランシスコ郊外に住むLucienさんと文通をするようになりました。

糸が解けた凧のように、アメリカで満喫した自由は、その後私の人生を大きく変えてしまうとは全く想像もしていませんでした。長い間飛行機に乗って、ニューヨークに着き、オリエンテーションを受けた後、ミネソタまでの長旅、プロペラ機でカンザス、バスに乗換えてミネアポリスに向かいました。バスの中で1泊する長い道のり。アメリカの広大さを身をもって痛感しました。家族にバス・ターミナルで迎えられ、1時間ほど車で走った後、目的地のモンテヴィデオに着きました。旅の疲れでウトウトしている私が、これがメインストリートと言われて、即座に窓から外を見ても、アット言う間に車は道を走り終えていました。周りはまさにグレート・プレーンズ、農耕地が広がり、遠くに見える地平線が印象的でした。

お世話になったご家族は、私より1歳年下の長女を頭に2人の男の子と両親。コッカスパニエルの猟犬も家族の一員でした。とても気が強い長女、はにかみ矢の長男の二人とは余り仲良くするということはなく、ユーモアたっぷりの末の男の子と気が合ってました。お留守番をしているある晩、部屋に閉じこもって宿題をやっている私は、部屋の外から名前を呼ばれるので、ドアを開けると、目の前にコーンフレークスの箱が天井まで積んであり、ドアを開けた拍子に、箱にぶつかって驚きの悲鳴を上げる私。その様子を見て、笑いこけている陽気な子でした。

帰国して数年後、この子が自動車事故で死亡したことを聞き、心が痛みました。長男が生後4ヶ月の頃、アメリカに一緒に連れて行きました。偶然にも結婚した相手が、ニース出身で私より2年前にAFSで、サンフランシスコの郊外に留学していました。そのご家族やロスアンジェルスの友人にお世話になった後、モンテヴィデオで数日過ごしました。無口でぶっきら棒だったご長男が、弟の事故以来引篭もりがちのご両親を優しく気遣う様子から、彼の人間的成長が窺えました。

長女のナンシーは、音楽の道に進み、ご主人が主宰されるオーケストラでフレンチホルンを演奏し、コンサートで来日された際、実家の両親と弟夫婦に会ってくれました。悲運にも、ご主人が心臓発作の後遺症で引退された後、看護をする傍ら、陶芸を学び、私は2年前に古典陶器の産地、信楽、備前、常滑、益子を案内しました。その時とても印象に残ったことがあります。陶芸をはじめた、と言っても、まだ、5年にもならないのに、たまたま備前でお目に掛かった名人陶芸家が、作品の説明をして下さっているのに、彼女は『自分の作品、陶芸に関する考え』を、とうとうと述べるのです。

まさに、この光景が私をタイムトンネルで40年前に感じた複雑な気持ちを呼び起こしてくれたのです。何に対しても自意識が強く、あの当時、フレンチホルンを学校のブラスバンドで始め、家で練習するのですが、凄く聞き苦しい音を出し、皆から笑いものにされても頑張り、それを物にして、オーケストラに入団するまでになるのですが、そんな彼女の影で、凄くニヒルになってしまった弟と、頻繁に口争いをしていた姿が目に浮かびました。

【フランスへの道】
帰国後、上智大学のフランス語学科に入学し、語学は音声から、音声は振動、リズムが大切と、リズム感を習得する『ビビ・ロロ』と称する歌と体操を授業中にやらされるのです。難しい哲学や時事問題を話し合っている他の学科の学生の手前、肩身が狭い思いをしました。でもおかげで、フランス語をある程度、大学4年間で習得することが出来、今に至っております。

大学院に進学するか、フランスに留学するか、就職するか色々と考えあぐねた末、一回フランスが性に合うかどうか、旅行をしてみようと…2ヶ月の予定で色々回りました。何しろ、全ての尺度が金銭で、意外に偏見を持ち、自分の国以外に興味を持たないアメリカ社会に再度留学する気にはなりませんでした。

あれだけお世話になっているのに断片的な経験だけで決め付けてしまったのは、若気の至りなのでしょうか。同級生から、私の叔父は太平洋戦争で戦死したから、日本人を憎んでいるのと言われた時のショック、直ぐに『広島・長崎の原爆被爆者はアメリカ人を憎むのよ』と言い返してやれば良かったと後悔したこと。学校で農家出身の同級生の兄が徴兵でベトナム戦争に従軍してると話た時、共和党支持の父親が、平然と、『この戦争で税金は上がるし、もうこれ以上戦争を支えることは出来ない』と言い切ったとき、一瞬目の前をナパーム弾で大火傷を負ったベトナムの少女が走った姿を目にしました。学校でも、父親がメインストリートで事業を営む子弟と農家出身の生徒では待遇が違うこと…を公然と態度に示すことなどで、ショックを受けていました。

日本の高校は女子高だったので、私服は禁じられる環境から、男女共学、私服着用、しかも、ジーンズは許されず、必ずスカート着用で、髪の毛を染めたり、お化粧は当然の嗜みとする環境で、度肝を抜かれたこと。しかも女生徒は、BOY CRAZYと言って、男の子の話しばかりしてました。

一回、ホームパーテイーに招待された時、農家の主婦が集まってケーキを囲んでコーヒーを飲みながら、雑談した後、タッパーウエアーの販売がありました。通信販売と同様にこの手の商法は、隣近所が離れていて、イベントの少ない田舎だから成り立つのだと納得しました。

それから、食べ物に季節感がないことにも閉口しました。1リットルもある大型の缶詰のグリンピースを電気のオープナーで開け、温めもせず、器にとるでもなく、食卓に並べるのですから…1ヶ月ほど食事に慣れるのにも苦労しました。

そんなこんなで、アメリカよりもヨーロッパへの関心が高まったわけでしょう。フランスに来て食事や家庭の躾を観察するに、日本とさほど差がないと思いました。お世話になったご家庭の中には、裕福なのに、冷蔵庫も小さく、毎日主婦が買い物をして、それも新鮮な野菜や魚、肉類が豊富に並んだ市場で買うのです。子供の頃、祖母と出かけた朝市を思い出しました。さくらんぼなんて安くて美味しくて…トマトを始め野菜の味がしっかりしているのです。地域の違いが明らかで、特有に加工したハムやソウセージにチーズ、蛸やイカも新鮮でお料理がしたくなる環境なのです。また、デザートが最高。甘みをを控えた上品で生クリームをたっぷり使ったペイストリー。アメリカではフロステイングといった砂糖を固めた甘いだけのお菓子にうんざりしてましたから。美術館や由緒ある教会がいたるところにあって、文化を感じさせるのです。立派な建物、歩いて回れる町の作り、すっかり気に入ってしまいました。ワインの味見をして回っても、皆大事な宝物に触れるようにサーブしてくれ、言葉でその風味を説明してくれるのですが、まあ、なんとも色々な表現法があるものだと感心させられました。

最近、フランスの歌手で『ラ 、メール』を作詞作曲したシャルル・トレネが再度見直されてます。彼が作曲して、ナチス占領下で歌われた『ドウース ・フランス』を聞いて、8世紀のシャルルマーニュのころから、フランスはやはり地理的にも一番住み心地の良いところなのでしょう。良く言われますが、『フランスはフランス人さえ居なければなんと住み心地の良い国か』と…でも、私は、怠け者で、愚痴が多いといわれるフランス人が人間的で大好きです。均一的で個性を欠いている世界より面白いと思います。

【フランスから日本】
そんなフランスでも、のんびりした南仏に、観光以外に産業を興して地方経済を潤わせるために、研究所を誘致すれば、工場誘致と違い公害で観光資源に傷をつけることもなく、ハイテクで、知識レベルも高い住民を確保できると、60年代から、学園都市構想が民間主導で持上り、大学院大学や工科大学の博士課程、国立研究所が設置され、アメリカ系コンピュータおよび製薬会社が研究所を立てました。日本のトヨタ系自動車部品メーカー、アイシングループが研究所を創設したのが1986年。偶然にも3カ国語ができるアシスタントを募集していると聞いて、応募してみました。最初は、建設工事現場の通訳等をやりましたが、研究活動が進むうちに、経理や法律をフランスで学んでいたことが役に立ち、管理部長に昇格し、今では現地の執行役員として、本社から任命された社長さんの補佐をしています。

アイシングループを世界でも有数な自動車部品会社に成長させた、故豊田稔氏は生前から、自動車で商売をさせて頂いていることを世界に感謝する目的で、『真の世界の成長を国境を越えた、科学・技術の調和的発展により実現しよう』と、海外に研究所を創設し、各分野の知識人を招き『将来世界の人類に役立つ技術』と題したセミナーを年一回開催したと…知って本当に感動しました。欧州の研究の第一拠点として学園都市ソフィア・アンティポリスを選ばれたのです。

研究者は博士号を持つ人ばかりで、自然の中の研究所で、広い庭にはリス、フクロウ、雉、ウサギ、時にはイノシシの家族が訪れます。昼休みにランニングする人、ゴルフの打ちっぱなしをやる人。恵まれた環境でお仕事をさせてもらってます。傘下にはイギリス、一時はドイツにも研究室があり、その人・物・金の管理をするのが私の役目です。日本的な管理手法をヨーロッパ人に理解させることなど、チャレンジすることが沢山あって、充実してます。

この環境で得た経験を生かして、次男が4代目の経営者として参画するホテルの経営の後押しをしてます。2009年に襲った世界経済危機で経営不振に陥ったホテルを、私がリストラから経営構造改革を指導し、漸く最近キャッシュに少し余裕が出てくるまでになりました。本当に良い経験をさせてもらっていると感謝しています。

3月に襲った東日本大震災で、音信不通だったアメリカの友人7人のグループとも連絡が取れ、再会を期待しています。その中の一人で、AFSでアイスランドに3ヶ月滞在したジョーンが、シアトルで経営コンサルタント会社を開設し、トヨタ方式を研究していることを知りました。地震の被害者救援活動の一環として、たまたま15年前からロータリー・クラブに加入している関係で、各地のクラブを回って援助金をお願いをしてます。その際、行く先々で、『何故日本人はあれだけ落着いて、慎み深く行動できるの。フランス人だったら、泣き叫んで助けを求め、救済の手が遅いと政府を非難するに決まっているのに』と言われます。私もフランス人のように振舞っていたに違いないと反省します。私が入会した動機は、AFSの留学生を引き受けるために、生徒達が資金集めをしたり、その支援金としてロータリー・クラブやライオンズ・クラブが寄付をしてくれていたことへの恩返を何らかの形でしたいと思ったからです。

AFSの名称の起源が、欧州在住のアメリカ人が二回の世界大戦で戦傷者を救うために作った救急車のネットワークであったり、交換留学制度が、第二次大戦後間もなく米国の大学生により考案されたことを知り、その恩恵を受けた者の一人として、今強く問います。次々にバブルが崩壊し、金融投機家の鉾先が通貨・負債を抱えた国に向けられている不安定な世界金融の現状に対し、二回の世界大戦で戦場となった欧州諸国が平和を求めて打ち立てた欧州統一構想を、各国の利権のために捨ててしまうのか。世界で初の試み、『国土のない通貨ユーロ』も一緒に。それぞれ人間を囲む環境は異なっていても、人間が、親として子供の未来を慈しむ心は、同じなのに。

今年の秋には、アメリカのフロリダ州で電子ボードのデザイン設計をする長男とニースでホテル業を継いでいる次男とバンコクで電子ボードの生産ラインを任せられている三男と是非日本で落ち合い、遺跡巡りをして、母の待つ新潟へ帰りたいと計画してます。京都奈良で日本の文化をじっくり味わったことがないの彼ら…フランスのロワール川のお城めぐり、フィレンチェやベニスに連れて行った時は、『お城、美術館、教会めぐりはご勘弁』と言ってた三人なのでどこまで彼らの忍耐が保てるかが心配ですが…

いつも優しくして下さったモンテヴィデオの母が癌で10年ほど前に他界しました。死の直前まで、電話で、『アメリカでの経験がどれ程私の人生に有意義であったか』、その感謝の意を彼女に伝えることが出来ました。その後、死期が迫った新潟の父にも枕元で『自由勝手を許してくれたことへの感謝』を伝えました。その場で手を握って見送れたたら…。いつかまたあの町に向かい、彼女と彼女の息子が眠る場所に跪き、純白のバラを捧げたいと思っています。

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