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小野美知子

小野美知子

小野美知子

Mt. Miguel High School, Spring Valley, California

AFS時代の思い出――住んだ場所、家族と学校

 私のホストファミリーは、カリフォルニア州San Diego CountyのLemon Groveに住んでいました。初めてロサンゼルス空港で出迎えてもらった時の家族四人の笑顔と、私の名前が漢字で書かれたオレンジ色のプラカードを目にした瞬間を、生涯忘れることはないでしょう。

渡米前にMotherが送ってくださった写真

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Fatherは会衆派教会の牧師で、シラキュース大学卒業後イェ―ル大学大学院神学部修了。同じイェール大学音楽部の学生だったMotherと出会い、六人の子供に恵まれました。Phyllisは私より一つ上、Markは八歳下で、上の三人のホストシスター、Judi、Lani、Kathiはすでに結婚していました。フィリスは美しい歌声で当時も発声訓練を受けていましたが、後にオペラ歌手としてデビューしました。フィリスのすぐ上のKeithは、勉強、スポーツ、音楽のすべてに優れた才能を示し、病気一つしなかったそうですが、私が行く二年ほど前に交通事故で亡くなっていました。アメリカ文学の授業でエミリー・ディッキンソンの詩 “The bustle in a house”をレポートすることになった際、私は詩の解釈をMotherに助けていただきました。そしてそのとき初めて、キースを失ったMotherの深い悲しみの一端に接した思いがしました。Motherは当時サンディエゴ交響楽団の第一ヴァイオリン奏者でした。
Motherは結婚のためイェール大学を中退されましたが、後に四十代でカリフォルニア州立大学に入学、五十一歳で作曲において修士号を取得、さらに七十歳を過ぎてからスペイン文学において修士号を取得されました。私がホームステイしたのは、ちょうど作曲の修士論文の最中でした。家にはいつもクラシック音楽が流れ、クラシック音楽好きの私には最高の環境でした。サンディエゴ交響楽団の演奏会は言うまでもなく、コンサートにはよく連れて行ってもらいました。私はMotherからどれほど大きな影響を受けたか知れません。学ぶことに関しては、“the joy of learning”、「学べば学ぶほど自分が無知であるということがわかる」といった言葉が印象深く心に残っています。卒業式の翌日、フィリスの結婚式があり、私は花嫁の付き添いとして参列しましたが、そのbridesmaidの衣装も、graduation dressもMotherが作って下さいました。その二つの型紙を基に、帰国後は私も自分で数多くのドレスを作る楽しみを味わいました

bridesmaidのドレス

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 私が通ったMount Miguel High Schoolは、Spring Valleyにあり、全校生徒数二千七百人、スクール・カラーは赤と黒、シンボルはMatador。教育レベルは高かったと思います。日本では「習熟度別」が問題視されることがありますが、授業はArt Class、College-Prep Class、Honors Classの三種類に分かれていました。私はCollege-Prep Classに属しました。Mrs. Andersonによる数学(Advanced Math)の授業では大学の教科書を用いて数I、数IIに相当するものを教わりましたが、日本語に訳された用語より英語の方が理解しやすいという印象を受けました。また、公式に関しては、暗記よりも導き出すことに重点が置かれていたので、記憶が不確かな場合には自分で導き出してから問題を解くことも可能でした。生物、美術、体育、アメリカ史、心理学、Student Government、どの授業も印象深く、特にMrs. Harleyのアメリカ文学は日本の国語の授業とは随分異なり、大学の授業のようでした。十余りの文学作品を一冊読むごとに三ページほどの小論文を書いて提出するという課題が与えられ、返却の際には必ず先生からのコメントが記されていました。先生はピューリタニズムを専門としておられましたが、十九世紀で扱ったのはホーソーン、エミリー・ディッキンソン、それにマーク・トウェーンの『ハックルベリー・フィン』だけで、あとはすべて二十世紀の作家、詩人でした。作家ではヘミングウェイ、スタインベック、シンクレア・ルイス、アーサー・ミラー、ハーパー・リー、詩人ではカール・サンドバーグ等が強く印象に残っています。一年の終わりに、授業で扱った本を何冊か下さった後で、先生は、“This is a very good book.”と言って、ヘンリー・デイヴィッド・ソローのWalden(『森の生活』)を下さいました。それは私にとって、後に研究することとなるソローの著書との、最初の出会いでした。
   
 
ホストシスターのフィリスが短大生だったため、同じ高校に通うSueがその役割を引き受けてくれることになり、毎朝、出勤途中のスーのお父さんの車で一緒に通学しました。Cliffも良い友達でした。忘れ難い友人達の中でもこの二人は特別で、二人とも幼い頃に家族がそれぞれカナダ、オーストラリアからアメリカに移り住んだということです。クリフはjunior seniorと呼ばれるHonors Classの生徒で、スーは成績優秀者として卒業式に表彰されました。今では音信不通ですが、いつかまた会えることを心から願っています。
 グロスモント学区には九校あり、そこに通うAFS生十五人は会う機会が頻繁にありました。同じ学校に通ったチリのIgnacio(愛称ナチョ)をはじめ、イタリア、フランス、ドイツ、パラグアイ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ペルー、タイ、セイロン(スリランカ)、アフガニスタン、そしてイギリスから二人。パラグアイのCarlosのギターに合わせて皆で歌を歌ったことも懐かしく思い出されます。AFS Assemblyと称する催しにおいては九校を順番に訪れ、それぞれ特技を披露しました。私は振袖姿で日本の歌を歌いました。また、ライオンズ・クラブ等でスピーチをする機会が二十回以上ありました。
 大陸横断バス旅行(Mid-way Trip)は、出発当初こそアメリカの家族や友達がなつかしく、この旅行のかわりにもう一ヶ月レモン・グローヴにいられたらと、思いましたが、やがてとても楽しくなり、最後にニューヨークに至るまでの間、十一箇所に三日ずつホームステイしたことは、アメリカの別の側面を知る上でも得難い経験でした。また、「ほめて伸ばす」というアメリカの教育方法のおかげで新たな自己発見をし、それまで知らなかった面や能力にも気づくことができました。
「“Thank you”と“smile”を大切にすること」、「日本での経験と比較して批判したりせずに、アメリカを受け入れること」という渡米前の助言を深く心に留めましたが、後者は、「逆も真なり」で、帰国後にも大切にすべきだったと、今、思います。知らないうちに、アメリカの視点でものごとを見るようになっていたようです。帰国直後に、日本での一年を終えてアメリカに帰るというAFS生と出会いました。その人の言った言葉が今も鮮明に記憶に残っています――「私が日本で受けた恩は、与えてくれた人たちに返すことはできないから、これから、他の人たちに対して、返していくつもりです」。

帰国後の話――ホストファミリーとのその後の交流、今思うこと
 ホストファミリーとの再会を果たしたのは二十年後の1988年でした。たまたまカリフォルニア州モントレーの大学から英語研修の誘いがあり、参加したついでにホストファミリーのもとを訪れました。何人かのかわいい家族が増えていましたが、まるでそれまでの二十年がなかったかのように、皆昔に戻り、幸せな二日間を過ごしました。その後1995年に初めてマサチューセッツ州コンコードのソロー学会年次大会に参加して以来、大会に参加するたびにカリフォルニアに立ち寄り、家族との再会を楽しんでいます。

20年後の再会:1988年

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私はホスト両親を日本にお招きするためにお金を貯めましたが、準備ができた頃には、残念なことに、Motherの脚が弱って渡航は難しい状態でした。そしてMotherが亡くなられた1998年の夏、Fatherに日本へ来ていただきました。私の仕事の都合で十日ほどの短い滞在でしたが、心に残る充実した日々でした。Motherのために貯めた分を“Marje and Keith Fund”に寄付することができたのは幸いでした。Fatherは今年九十八歳です。美しく年を重ね、定期的にジムに通い、まわりのお年寄りの励みになっておられます。若い頃から書きためてこられた詩の一部が近々日本から拙訳つきで出版の運びとなります。
AFSの一年があまりにすばらしかった一方で、帰国後は環境に適応するのに苦労しました。ホームシックにかかり、当時はまだ知られていなかった逆カルチャーショックも経験しました。地元の国立大学から大学院へ行くつもりでしたが、英語学、英米文学のいずれの分野でも研究対象が見つからず、またアルバイトで高校生を教えた経験が忘れられなかったので、県立高校の英語教師になりました。二十四年間勤めました。その間、生徒との関わりにおいて記憶すべき時間を多く持つことができ、AFS生を送り出したり受け入れたりという経験をすることもできました。母校に十四年間奉職しましたが、不思議なことに、その間に限り、ほとんど毎年アメリカ、オーストラリア、イギリス等の海外研修に行く機会に恵まれました。しかしながら、いつの間にか同一校勤務年限を越えてしまったため、公募により大学に勤めるという仕儀になり、現在に至っています。
高校教師になって二年目の頃、ソロー著Waldenの「春」の章に感動して全章を読み通し、生涯の研究対象に出会ったと確信しました。職場において「マージナルマン」という言葉を意識する中、ソローの言葉は常に私を励ましてくれました。最初に支えになったのは次の言葉です――
“If a man does not keep pace with his companions, perhaps it is because he hears a different drummer. Let him step to the music which he hears, however measured or far away.”

この言葉は私に、人と違っていてもいいのだという自信を与えてくれました。その後、コロンビア大学大学院からTESOLにおいて修士号を取得し、東北大学大学院文学研究科から英文学(ソロー研究)において博士の学位を取得しました。日本ソロー学会では理事の一員として名を連ねています。現在の私があるのは、AFS体験のおかげです。これからのこととして今思うのは、私もMotherのように、七十歳を過ぎても研究を続けていたいということです。そして、なんらかの形で英語教育に関わっていられるよう願っています。

小野No3R
マサチューセッツ州コンコードのウォールデン湖(夏の風景) 

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