Welcome to AFS YP15

保坂俊明

保坂俊明

保坂俊明

R.L.Thomas High School,
Webster , New York

留学まで

私の場合は他のAFSの皆さんのように留学に対する強い目的、希望があったわけでない。話は高校受験までさかのぼるが、その当時はあの悪名高き学校群制度が始まる1年前で、私は都立では1番といわれた日々谷高校を受験して数点差で不合格になり、2~3流といわれていた都立の大崎高校にまわされた。半ばやけになった面もあったが、スポーツが好きだったのでテニス部に入り、毎日遅くまで部活に励んでいた。学力テスト等は余り勉強しなかったが、ほぼコンスタントに学年で1位だった。高校2年になった頃だったか、以前長兄が高校時代に都とニューヨークの交換留学試験(AFSではないと思うが5名程度)に最終選考までいって落ちたことがあり、私にもAFSの留学試験を受けてみないかと勧められた。そこで、軽い気持ちでアメリカでも行ってみるのもいいかと試験を受けようと思い、過去問題などをとり寄せてはみたが、特別な勉強をするでもなく、NHKラジオの英会話を聞く程度の準備しかしなかった。
 都全体で20名程度の合格枠だったと思うが、1次試験の会場に行ってみると、都立小松川高校の体育館に満員の受験者がいて真っ青になった覚えがある。しかし、よっぽど運が良かったのか、奇跡的に合格することができた。

苦悩の初期留学時代

私が1年間を過ごしたのは、ニューヨーク州の最北に位置するオンタリオ湖岸の人口
5千人程のWebsterというきれいな町だった。 近くのRochester という大きな町に行けば大学に日本人もいたが、Websterには日本人どころかアジア人も殆どいなくて1年間日本語を話す機会が全くないという貴重な経験ができた。Rochesterはゼロックスの創業の地で、今でもゼロックスの主要施設があり、WebsterからRochesterのゼロックスに働きに行っている人も多かったという。Websterは北海道よりはるか北に位置するので、夏は涼しく快適だが、10月には雪が降り出し、真冬には裏庭に水をまいとけばアイススケートができる程寒いところだった。ホストファミリィーの構成は父親が教育委員会の委員長、母親が小学校の先生で、私と同じ年の長男、3才下の次男、小学校5年生の長女ということで典型的な白人の中流階級の家だった。私の場合はホストファミリィーとはとてもうまくマッチングされていた。私自身3人兄弟だったし、私がヴァイオリンをやり、テニスが好きだったが、アメリカの長男もチェロを弾き、地域のテニスのチャンピオンで、一緒にテニスをするなど、とても気が合って、行動をともにすることが多かった。家族全体でも夏休みには近くの小さな湖の畔にある別荘に行ったり、ワシントンやボストンにも連れて行ってもらったりして、とても楽しく過ごさせてもらった。
ところが、学校が始まると、英語が少しはできると思っていたのだが、十分に相手に伝わらなかったり、スラングが多い会話にも余りついていけなくて、元々無口だったのが、余計しゃべれず、孤立感を深めていた。
学校は日本と違い1日6教科を選択し、それを1年中通して受講するというものだった。私は留学生なので、英語は英文学よりも米文学(ジュニアクラスだったが)を、それとアメリカ史を必修とされ、後は好きなものを選べということで、生物、微積分(10名の特別クラスだったが日本のレベルより遥かに低く楽勝だった)スピーチ、オーケストラにした。授業で最も厳しかったのは英語で、週の初めにペーパーバックを1冊渡されて、来週まで読んでこいと言われ、それを元にディスカッションをするため、辞書をひきつつ必死に読んだが、なかなか授業についていけなかった。また、生物の女性の先生はアメリカ人の中でも特に早口で、話されたことの半分も理解できなかった。
しかし、英語だけの生活に徹したためか2~3ヶ月で授業にもついていけるようになり、だんだん面白くなってきて議論にも積極的に参加できるようになった。特にアメリカ史は歴史というより時事問題中心の授業で、人種問題、ニクソン派と.ハンフリー派に分かれた政策論争、1万ドルを保有資産と想定した株売買など、一定の社会・経済的なテーマを先生が提示し、生徒同士で徹底的に議論するという、日本とは正反対のもので、生徒に考えさせ、生徒同士が各自の意見を発表することを中心とした授業だった。この頃から、私も自然に英語で考えるようになり、書いていた日記もいつのまにか日本語から英語に変わっていた。スピーチクラスは英語の発音、表現力だけでなく、内容の面白さやユニークさなどについてその場ですぐ各生徒からも褒められたり、批判されたりするので、短いスピーチでも論理的に話すとともに、いかに人をひきつけるかという貴重な勉強ができた。

青春を謳歌

 言葉のバリアーがなくなるとともに、授業も楽しくなり、放課後はテニスで一生懸命頑張り、レターマンになれた。いろんな映画を見にに行ったり、サイモンとガーファンクルのリサイタルで感動したり、オーケストラではミュージカルの伴奏をやり素晴らしい体験もできた。毎日が楽しくてしょうがなく、帰国日が近くなると日本に帰るのがいやになったほどだった。卒業前のダンスパーティーでは、散々悩んだパートナー選び、生まれて初めて着るタクシード、明け方まで遊びまくったパーティーなど、日本では決して味わえない楽しい思い出となった。
最後のバストリップは地域の留学生約40名が同じバスに乗り、滞在した地域から3週間ほどかけてアメリカ中部のデトロイト、オハイオ、ウィスコンシンなど何ヶ所かにホームステイしながら各地を回り最後にワシントンに集合するというもので、旅行しながらバスの中で留学生仲間で歌ったり、騒いだり、また、それぞれの滞在地でホームステイして色々なホストファミリーとの交流をするなど、とても楽しいものだった。

帰国後

 東京都に就職してからは、語学力をかわれて数々の国際会議の事務局運営を任された。東京都はニューヨーク、パリ、北京等と姉妹・友好都市提携をしており、初代の東京都パリ事務所長となり事務所を開設し、パリ市との間で歌舞伎、相撲、シャンソン、やぶさめ、等数々の文化交流、市民交流等をてがけた。また、国の機関に出向して、ミヤンマーや韓国への円借款業務も困難だったが非常にやりがいのある面白い仕事だった。また、最近では、2016年のオリンピックを招致するための東京オリンピック・パラリンピック招致本部で開・閉会式、全体スケジュール、財政、医療、警備等運営面の計画の責任者として全体計画を作成するとともに、アテネ、北京、ヴァンクーバー、ローザンヌ等世界各都市で東京の計画について知事や他のメダリスト達とプレゼンをして回った。このように世界各地において英語等で厳しい交渉をやプレゼンをするなど国際的な仕事をこなしてこられたのは、AFSにおける経験が大いに役に立ったことはいうまでもない。
 最近、日本や東京の世界におけるプレゼンスが低下しているといわれているが、あらゆる機会を通じて東京や日本の文化や暮らしの状況を世界に発信していくことが必要で、今後ともこのような仕事にも引き続きかかわっていきたいと思っている。

 ホストファミリーとは帰国後、年1回クリスマスカードをやりとりする程度だったが、30年前、私がパリに駐在していたときにアメリカの両親が約1週間私の家に滞在してくれたので、パリや近郊を案内することができた。その後私の出張先はヨーロッパが多く、アメリカに行く機会があまりなかったが、ニューヨークに住む次女が10月に長男を出産したので孫を見に行くとともに42年ぶりに留学した町を訪れた。
 両親は85歳になっていたが、年をとったとはいえ、大きな病気もせず、とても元気だった。高校生の時に始めて訪れた時のように暖かく心から歓迎してくれた。懐かしい高校や町のあちこちに連れて行ってってもらい、はるか昔の楽しい思い出が一気にによみがえった。そして、弁護士の次男はオルバニーから3時間半、医者の長男はオハイオから7時間車を運転して会いに来てくれて、みんなで昔話をし、ゲームをして夜中まで楽しく過ごした。
 私は、このとき、結婚して34年になる最愛の家内が4月に癌で亡くなったために、失意のどん底にあり、生きていく希望も全くなくしていた時だったが、あらためて彼らの優しい愛情に包まれ、心が癒されるとともに、私もまだまだ頑張って生きていかなければならないと思った。
今思い起こすと、あのアメリカでの1年間の高校生活は夢のような気もするが、私の人生における最も輝ける時期でもあったように思う。このような貴重な経験をさせてくれたAFSの方々、ホストファミリー、地域のボランティアの皆さんに改めて感謝するとともに、時間にゆとりができて、いわば第2の人生に踏み出した今日、私自身がなんらかのかたちでAFSや社会に貢献することを模索していきたいと考えている、

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional