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吉川元偉

吉川元偉

吉川元偉(よしかわ もとひで)

LeRoy High School
LeRoy, Illinois

1. 高校の先輩と知り合い,アメリカ留学を目指す
私は,奈良県の御所(ごせ)というところで生まれ育った。かなりの田舎だ。
はっきりした目標もなく、66年に地元の畝傍高校に進学した。入学したら,部活の紹介があった。英語に関心があったし、ESSの部長の話が面白かったので、ESSにした。部長は,1年上級生で末吉高明といった。中学が違うので知らない人だったが、毎朝同じ電車で通学し,仲良くなった。特にその博識に圧倒された。ある日末吉さんは私に,「オレ,アメリカに行こうと思てんね」と言って,AFSの説明をしてくれた。アメリカに行くことなど考えたことがなかったので,末吉さんの話は,新鮮な驚きだった。自分も行きたいと思った。

その頃既に二人は,毎朝30分の通学電車の中で「松本亨NHKラジオ講座」の番組を声に出して復習していた。もちろん末吉さんの発案だ。二人は,テキストは事前に暗記し、朝の放送を聞いて発音やイントネーションを確認し,電車の中で、分担を代えながら学校に着くまで繰り返すのだった。周りの乗客の反応は,我々には関係なかった。「ソノシート」と呼ばれたレコード盤も買って、繰り返し聞いた。松本亨先生に会ったことは遂になかったが,その低音で響きのある声は、今でも記憶にある。

1年生の夏休みに,近くの大和高田に豪州の姉妹都市から高校生が来ているというので,ESSで懇親会があった。かわいい女子学生が来た。私が,外国人と英語で話した初めての機会だった。その秋に,末吉さんがAFSの試験に合格した。学校では大きなニュースだったが、私には,当然のことだと思えた。通学時のラジオ講座暗記は,末吉さんがアメリカに行くまで続けたと記憶する。

67年の夏,末吉さんはミネソタに旅立ち,私は、後任のESS部長になって英語劇の準備を始めた。毎朝の会話相手を失ったが,私の留学への意思は,弱まるどころか一層強くなった。末吉さんから水色の航空書簡で送られてくる「ミネソタ便り」を繰り返し読み,アメリカに行っている自分を想像していた。

その夏は,八王子のセミナーハウスで開かれたAFSサマーキャンプに参加した。サマープログラムで来日したアメリカ人学生と数日間一緒に過ごすというもので、私にとってアメリカ人と話す初めての機会だった。関西以遠に一人で旅行したのも,それが初めてだった。日本の学生たちが英語もうまいし、そもそも大変ませているのに驚いた。その秋の選考で、AFS留学が決った。奈良県からは,奈良高校の豊崎美幸さんと私の二人だった。

2. アメリカに行くということの意味

ここで、アメリカ留学することについての,1968年当時の私の周りの環境と認識に触れておきたい。両親は、外国に行ったことはなかった。正確に言うと,父は,徴兵されて九州と満州で4年,シベリア抑留で4年、計8年兵隊だったが、外国生活にはカウントされないだろう。親類にも外国に行った人はいなかった。そもそも英語が出来る人は、周りにいなかった。

アメリカに行きたいと言った時,両親は、驚いたが反対しなかった。父は,留学するにはいくらかかるのか、と聞いた。既に合格した時のことを考えていたのだろう。実際に合格した後、母は,つてを頼ってアメリカ情報を仕入れに歩いた。近くの歯医者の息子が商社にいて、アメリカ勤務経験があると聞き、NYに住んだという息子が里帰りした際会いに行った。両親にとり,アメリカは私以上に未知の世界だったのだ。1968年に海外渡航した日本人は,38万人だった。

私が外務省に入ってから,母は、今まで言わなかったが,と断ってこんな話をした。「お前が留学すると決った時,親戚のおばちゃんが来て,『秀子さん、長男がアメリカに留学するのを、よう許しましたな。元偉さんはもう奈良には一生戻りませんで。』と言わはった。私は,『家族で決めましてん。祝ってやって下さい。』と言うといたわ。せやけどな、お前のおばあちゃんが生きてはったら、反対しゃはったやろな。」

母は,親戚のおばちゃんの「予言」を聞くまでもなく,子供をアメリカ留学させることの意味を判っていたが,自由に進路を決めさせてやろうと思って黙っていたのだ。その後,二人の弟も,AFSでフロリダとミネソタに行き,「AFS吉川三兄弟」になる。長男は,外務省に行き,次男は,商社で働き,三男だけが奈良に住んで教師をしている。

両親が、留学を許してくれただけでなく支援してくれ,その後息子が「予言」の通り、奈良には戻らずに外務省に入り,後には,フランス人女性と結婚するのを,すべて暖かく祝福してくれたことには,深く感謝している。

私がAFSを目指していると知った時の先生方の反応にも触れておく。多くの先生は,「がんばれ」と言ったし、英語の先生には、AFSやホスト家族に提出するために英語で書いた文書を添削して頂いたが,一人の教師は,「アメリカに行ったら,一年遅れるし,受験にはマイナスやで。」と「助言」してくれた。

3. 学校に行くのが楽しくてたまらなかった1年間

17歳になった年の夏にアメリカに行った。両親が羽田まで来てくれた。特別料金を払うと,搭乗前の乗客とガラス越しに話せるところがあって,両親はそこまで来てくれた。その後,両親とは,空港での別れを何度も繰り返すことになるのだが,68年の羽田は,その第1回目だった.

NYでのオリエンテーションを終えて,バスで2日かけてセントルイスまで行ったら、ホスト家族が全員で迎えに来てくれていた。お父さんと子供たちの英語は聞き取りにくかったが,お母さんの話すことはだいたい判った気がしたので,安心した。到着時の自分の写真を見たら,初めて買って貰ったスーツを着て、ネクタイを締めている。誰かに言われたからかも知れないが,あの恰好で2日間もよくグレイハウンドに乗っていたものだ。ホスト家族は,保険会社幹部の父と専業主婦の母,1歳下の弟と5歳下の妹の4人。シュナウザー犬が1匹いた。家は,町外れの広大な敷地に建った平屋。車が3台あることと冷蔵庫の大きさに驚いた。

Local Newspaper

画像の説明

1年住んだLeRoyは,人口3500人。トウモロコシと大豆の畑が広がる典型的な中西部の町だ。LeRoy High Schoolは、1900年頃出来た学校で,各学年60人位の規模。教師と生徒の全員が白人だった。ハイスクールの体育館には,スポーツ大会のトロフィーが並んでいた。トロフィーの列は,第二次大戦を戦っていたはずの1941−45年も途切れてなかった。日本が大相撲も野球も止めて、総力戦を戦っていた時に,アメリカの田舎の高校では、フットボールやバスケットボールに興じていたのだ。日本はなんという巨大な国と戦争をしたものだ、と感じた。

学校が始まる前に,秋のスポーツを決めろというので,私はクロスカントリーを選んだ。早速練習が始まり,毎日5マイルくらい走った。日本では,体育のマラソンしかやってないので,最初は辛かったが、お陰で、9月に学校が始まった時には,既に何人か友達が出来ていた。

学校にはすぐ馴染めた。日本の中高校は、面白くなかったが、アメリカでは毎日学校に行くのが楽しくてならなかった。理由は色々あるが,motivationが高かった。学科は,英語であることを除けば内容は易しく,初めて習う米国史は面白く、日本では仕方なくやっていた勉強が楽しかったので、成績は良かった。何度か学年最優秀Honorをとった。ローカル紙に高校のスポーツの結果から成績まで名前入りで載る。母が,私の名前の出た記事を切り抜いてくれた。スポーツ以外にもスピーチ大会、大統領選挙の模擬討論など,何でも参加した。この間、日本人に会ったことはなかったし,日本語を話したのは,クリスマスプレゼントとして奈良の家族にかけた1回の電話だけだった。

嬉しかったことは,先生たちが生徒の能力を引き出そうと努力してくれたことだ。コーラス部に入ったら,Fultonという女の先生が、Motoは才能があるから州の大会を目指そうと言って,放課後個人授業を始め,その結果,私は州都スプリングフィールドのテレビ番組に出て、”I love Life”という曲と「夏の思い出」を歌った。町の多くの人が、テレビを見たよと言ってくれた。私の日本での音楽の点数は,3か4だった。秋はクロスカントリーを,冬はレスリングを選び,担当の先生は,私のような素人も親切に指導してくれた。お陰で,両方で正選手になってCounty(郡)の対抗戦に出場し、「レターマン」になった。日本では,運動部に属したことはなかった。

ガールフレンドも出来た。金曜夜は,弟とダブルデートをして,映画やボーリングに行った。後にGeorge Lucasの映画”American Graffiti”で描かれた世界だった。ガールフレンドとの別れは,当時流行した曲”Leaving on a Jet Plane”の歌詞のようだった。

最後に,私のアメリカ生活を充実したものにしてくれた立役者であるホスト家族を紹介したい。父は,大学では短距離の選手でテノールの歌手、第二次大戦中は,欧州戦線で爆撃機乗りだった万能の人。40歳頃に大きな交通事故にあって右足を切断したが,義足で歩いて,車を運転し,ゴルフもうまかった。帰国する前日、”Don’t you want to say good-bye to Linda?” と言って、ガールフレンドの家にさようならを言いに連れて行ってくれた粋な父でもあった。後年外交官になったあと何度か訪ねて,高校生の頃は到底無理だった「大人の会話」ができ、ガンで亡くなった時は,葬儀にも参列できた。

Christmas Card 1968

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母は,私の第二の母だ。着いた日から,不思議なことに母の言うことはほとんど解り,私の言うことを皆理解してくれた。毎日長い会話をした。私の出るスポーツの試合,音楽の発表会など、全てのイベントに来てくれた。クリスマス頃から月2回ペースで行ったスピーチは、母を相手に練習した。風邪を引いて高熱が出た時には,一晩ずっと付き添ってくれた。私の任地には来てもらえなかったが,訪ねるたびに一緒にゴルフをするのが楽しみだった。2009年から,アルツハイマー症になり、息子のSteveすら認知できなくなってしまった。

ホスト家族の兄弟とライバル関係になる例を知っているが,幸い弟とは補完関係だった。彼は,理科系で機械いじりが好きで,ピアノとパイプオルガンを弾いたが,スポーツは苦手だった。1年下だったので,クラスも違った。大阪万博があった70年に、日本に来てくれた。大学を出て、ボーイング社のエンジニアになった。働き始める頃,シカゴに訪ねたら男性と同居していて,ゲイだと言ったので驚いた。当時中学生だった妹は,弁護士になった。

4.アメリカ留学から戻ってからこれまでの42年間

留学中よく聞かれた質問は,「将来何になりたいのか」だった。当時の新聞記事を見ると「外交官かジャーナリスト」と答えているが、実は,外交官にもジャーナリストにも会ったことはなかった。初めて外交官なる人達に会ったのは,バス旅行の最後にワシントンに行った際,駐米下田武三大使公邸で行われたレセプションの場だった。ちなみに,私は後年、この下田大使の葬儀の裏方を務めた。

帰国すると、「外交官になるには,東大に入らんとアカンで」と教えてくれた先生がいたが,既にICUに行こうと決めていた。ここでも,末吉さんの影響があった。末吉さんは,1年前の夏に帰国し,畝傍高校に復学せずに,アメリカの卒業証書で9月にICUに入学していた。私は,ICUで外交官試験の勉強をすればいいだろう、程度の気持ちだった。ICUでは、柔道を始めた。アメリカで日本のことを知らないと痛感したことが一因だった。講道館で黒帯をとった。外交官試験の受験勉強は一生懸命にやった。あんなに勉強したのは,初めてだった。高校時代の受験勉強は,イヤだったが、今度は苦にならなかった。幸い4年生の夏、試験に合格した。

外務省に入ってからの人生は,本稿の主題でないので簡単に述べると、外務本省では,中南米、人事,途上国への援助,多国間経済,国連の政治問題,紛争解決などを担当したあと,開発援助を担当する経済協力局審議官を経て、アフガニスタンやイラク情勢が大変だった頃、中東アフリカ局長を務めた。外国勤務は,もう一つ外国語を学びたく,外務省から2年間スペインに留学した後,ブエノスアイレス,ロンドン,パリ,バンコック、NY(国連代表部)を経て,念願のスペイン大使になった。スペインでは,在任中に最高位勲章を外務大臣から贈られたアジア最初の大使になる栄誉を受けた。オバマ政権発足とともに,初代の「アフガニスタン・パキスタン特使」を務めたのち,2010年夏からパリでOECD代表部大使を務めている。

外交官人生では,AFSの経験が生きている。どこに行っても、AFSと言えば,いろいろな扉が開かれ、肩書きではつきあえない人達とも知り合いになった。外務省にはAFSの先輩が多く,助けてもらった。OECD大使の歴任者の中にも、登誠一郎と北島信一両氏がいる。私は,スペインで知り合ったフランス人とアルゼンチンで結婚したのだが,その際の立会人は、バス旅行の仲間で、ブエノスアイレス大学医学部の助手になっていたEduardoだった。

このように自分の人生を振り返ると,末吉高明さんとAFS留学1年間の影響が極めて大きかったことに改めて気がつく。末吉さんは,ICUを卒業すると直ちにアメリカに戻り,その後日本で教師になった。専門は,米国黒人思想だ。現在,香川県の四国学院大学学長である。

(2011年9月17日記)              

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