Welcome to AFS YP15

海老原あや子

海老原あや子

海老原あや子

Coronado High School,
Coronado, California

上智大学法学部卒業後、米国Velsicol東京支社に3年勤務。その後、特許事務所を経て現在の税理士法人プライスウォーターハウスに勤務。翻訳担当後現在はRisk Management & Compliance部のスタッフとして業務を担当しています。
2002年に夫を海外出張で亡くしてから過労死遺族の会の活動に関わり、遺族のケアのために過労死遺族の心のケアを考える会を立ち上げてしばらく活動していましたが、思うところがあり遺族関係の活動から方向転換して自分の好きだったことをやろうと思い立ち、ボーカルレッスンを始めました。好きだったロックを歌おうと、今はロックバンドのボーカルとして、また洋楽のロックバラードやスタンダードを中心としてピアノとのコラボのライブを行っています。

1. AFS時代の思い出 
留学先はカリフォルニア州のサンディエゴからフェリーで10分ほどのコロナドという小さな町です。そこは海軍の基地があるところで、ホストファミリーはなんと原子力潜水艦の艦長さんのお宅で、4人の子供とご夫婦の6人家族に私が加わる形で留学生活が始まりました。
The Mamas & The Papasというグループが歌っていたCalifornia Dreamin’という曲があります。とてもアメリカっぽい曲で大好きですが、カリフォルニアはその歌の雰囲気そのまま、どこまでも続く青い空と解放感にあふれた州です。そして私が一年間過ごしたコロナドにはビーチがあってホストファミリーの家からも歩いていけるビーチがありました。北海道出身の私にとってはこの青い空とビーチがまずとても新鮮に映りました。そして食べ物もです。今ではどこにでもあるマクドナルドは当時日本にはありませんでした。ハンバーガーのバンズ自体がまだ珍しい頃でしたから、高校生の私にとってハンバーガーはご馳走でした。食べ物の話ばかりで恐縮ですが、Baked Cheese Cakeを初めて食べたときのあの驚きは忘れられません。潜水艦の艦長をしていたお父さんが一度だけ家族を潜水艦に招待してくれてそこでディナーをいただいた時のデザートだったんですが、世の中にこんなに美味しいものがあるって・・・と感激しました。当時のアメリカは日本にとってはまだまだいろんな意味で憧れの的だったんですね。
さて、次に驚いたのは学校です。ミッション系の女子高で制服のスカートの長さまで決まっていた私には、男女共学だけでも新鮮なのに、授業は自分で選択するし、休憩時間には自販機で自由に飲食出来るし、まずその自由度に圧倒されました。しかもEnglishのクラスには子供もいる若い学生もいました。毎週金曜日にはスクールダンスがあって、週末はデートも楽しみます。私から見ればここは高校というより大学のような感じでした。とはいえ、実際自分がハイスクール・ライフを満喫できたかと言えば、最初は言葉の問題がやはり壁でした。1対1ならともかく、グループでしゃべる時に全く輪の中には入れない時期が相当あってかなり辛かったのを覚えています。
言葉の壁も少しずつ取れてきて、クラスにも友人ができ始めて来た頃に、School Playでミュージカル「王様と私」が上演されることになりました。Directorは私が大好きだったSpeechのクラスを担当の先生でした。それもあって私は迷わずオーディションを受けました。歌には自信があったので、あわよくば主役を、と思っていましたが、さすがにそれは無理でした。それでもLady Thiangという重要な脇役の役をもらえました。たった2日間のステージではありましたが、オーディションから始まってミュージカルに一から参加できたことはとても貴重な経験でした。体育館のステージで、Lady Thiangになりきってソロを歌ったときの場面は今でもはっきり覚えています。
当時の音楽といえば、Fifth DimensionとかLettermen、Beach Boysとかはホスト・シスターがよくかけてましたし、海軍学校に行っていた長男が持っていたCDでBrazil 66とかSimon & Gurfanklとかは毎日のように聴いてました。個人的にはあの時ヒットしていたDoors、Blood Sweat & Tearsがとても好きでした。

2. 帰国後そして今思うこと
AFS時代は人生の中で最も感受性が高い時期でした。その時期に、自分が育った家庭や学校と離れ、全く違う環境に自分を置くことができたことは、かけがえのない体験でした。それは、自分の考え方やものの捉え方に間違いなく多大な影響を与えていると思います。一言で表現するのは難しいですが、自分にとって未知の部分にそれほど不安感を持たない、物事はこうあらねばならない、という価値観や視点に囚われない部分は、AFS時代の影響が大きなところだと思います。
実は私はホストファミリーとはあまりうまくいっていませんでした。いまくいっていない、というのは自分がそう感じていたということで、別に険悪なムードになっていたわけではないのです。ただ、一人っ子でのんびりと育ってきた私にとって、たとえば夜ご飯のデザート用にとっておいたオレオビスケットが一枚足りないじゃない、誰が食べたの!と本気で怒るタイプのホストマザーがとても苦手でした。そのような日常での違和感がだんだん蓄積していったのです。でも1年間の留学を終えていざ帰る頃になるとこのままアメリカに残りたい、と思うほど慣れていきました。自分でもとてもたくましくなったと思います。残念ながらホストファミリーとの交流はその後途絶えてしまいましたが、貴重な体験に感謝しています。
私は8年前に主人を海外出張で亡くしました。当時は自分の片腕が亡くなったような喪失感を覚えましたが、その後過労死家族の会という自助会に参加して、遺族の心のケアを考えるようになり、自分でケアの会を発起しました。自分でもどこからこんなエネルギーが出てきたかわからないのですが、もしかしたらAFS時代のいろいろな体験が後押ししてくれたのかもしれません。ただ、数年間遺族としての遺族同士のケアの活動に関わるうちに、遺族の話を聞いたり、自分の遺族としての体験を語るときに過去の自分にいやおうなしに引き戻されるのがだんだん辛くなり、遺族としての自分の枠組みからもっと離れたい、という気持ちがとても強くなりました。そしてどうせ一度の人生なら今までやりたかったことをやりたい、と思うようになり、やりたかったボイトレを始めました。ボイトレの最初の発表会がライブハウスのステージでしたが、そこに立ったときにAFS時代のミュージカルの舞台の高揚感がよみがえってきたのです。おこがましい表現かもしれませんが、自分の原点がここにある、と感じた瞬間でした。
AFS時代はとてもたくさんの方にお世話になりました。これからそろそろ恩返しと思っていますが、私ができる恩返しは、自分の好きなことを通じてやってみたいと思っています。遺族の方たちのためのケアの会の活動をしていた時は、人のために、という意識が多分高すぎたのかもしれません。そのために、ちょっとした意見の食い違いに大きく反応してしまったり、自分がこれだけやっているのにわかってもらえないことに失望したりということがありました。でも今は逆に、自分が楽しむ姿を見てもらうことでたくさんの人と関わっていきたいと思っています。

3. 最後に
AFS時代は自分の原点を目いっぱい伸ばすことのできた時期でもあります。大げさな表現かもしれませんが、カリフォルニアでの1年は私の青春でした!そこでの体験が、今これからやろうとすることとぴったりと重ねっていることはとても幸せなことだと思います。今まで私は積極的にAFS時代のことを伝えてはいませんでしたが、これからはもっともっと体験を語っていきたいと思います。カリフォルニアのあの青い空を思い出しながら。
最後になりますが、7月のリユニオンでは懐かしく、そしてとても楽しく素敵な時間を過ごさせていただきました。幹事の皆様に心から感謝いたします。そしてこの文集の企画や担当をされている皆様にもこのような場を設けていただいたこと感謝しています。ありがとうございました!

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional