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萩原重夫

萩原重夫

萩原重夫

Minnetonka High School, Minnetonka, Minnesota

AFSの回想

中西部の中都市を留学先として希望し、ミネソタ州、ミネアポリス郊外のミネトンカ高校に配属された。他にノルウェーと、フィンランドから一人ずつ来ていた。同校は郊外の町にある公立高校の一つで、その地区の高校が緩やかな連携を持ち、アメフトやバスケットの対抗戦を行っていた。ホームとアウェーがあり、ホームの試合後はボールが開催され、とても楽しかった。アウェーの時は、50セントで切符を買ってスクールバスで応援に行った。日本では味わえない高校生活を体験できたことは有意義だった。

ミネトンカ高校はAFS活動の盛んな学校で、校内の委員会を生徒が組織し、派遣候補も自分たちで選んでいた。私も派遣生の面接に立ち会ったが、こういう自主的活動こそ見習うべきものだと思った。

近くのワイザタに宮本幸伯さんがいて、たまに遊びに行った。私の父は、トラクター技師という中産階級だったが、宮本さんの家は会社重役で、別荘を何軒も持っていて、各地を旅行していたのはうらやましかった。ホストファミリーとの旅行は1年間でクリスマスに1回だけで、それもデトロイトの親戚を訪ねるという地味なものだった。ただ、弟が音楽好きで、ジミー・ヘンドリックスとザ・フーのコンサートには連れて行ってもらい、貴重な経験をした。これもミネアポリスという都会の近くだったから可能だった。

留学前には、国際機関で仕事がしたいと思っていたので、別の世界を理解することが留学目的の一つだった。最近はとりわけ反動化しているけれども、宗教(「市民宗教」という観点も強く存在する)理解が、米国理解の一つの鍵だと思っていた。偶然ホストファミリーは教会に行かない家族だったので、頼んで近くの教会に連れて行ってもらったり、高校の友人の家族に頼んで色々な教会を見せてもらった。前橋に私の留学直前に来ていたAFS生が牧師の娘だったので、ダラスまで訪ねて行ったこともある。さすがにバプテストの地盤だけのことはあり、カトリックのような荘厳さはないものの、一度に千人以上の信者が会する大規模な教会で、副牧師が数人いた。北部と南部の違いの一つがここにも表れていると思った。それからついでに、当時存在していたLTVという軍需工場も見せてもらった。案内してくれた人も工場を見るのは初めてだったそうである。保守的な人がほとんどだが、皆親切だった。(地元の名士である牧師の客ということもあるだろう)。

私が、キリスト教に関心があることが知られて、高校の友人が、ビリーグラハムの集会に誘ってくれた。その時の会合はミルウォーキーで開催され、”Youth for Christ”という集まりだったと記憶している。ビリーグラハムとは全然思想が違っていたし、ベトナム反戦の学生たちとも交流があったから、全く同化することはあり得なかったが、基本的にまじめな青少年たちなので、色々と議論ができてこれも面白い経験だった。

学校での授業は公立高校なので、全く問題はなく、アメリカ史の授業では議論をむしろ主導し、先生に気に入られた。この先生は、Mr. Schmidtといい、ドイツ系であるが(ホストファミリーもドイツ系であり、ミネソタは、ドイツ、北欧系が多い)、カトリックだった。
帰国直前に家の食事に招かれたが、なんと子どもが9人夫婦を正面にして大テーブルにずらりと並んで食事をしたのも良い思い出である。

日常生活では、大きな出来事もない代わり、特に不自由もなく、高校生活を楽しんだ。クロスカントリー部に入り、冬以外はほぼ毎日練習した。偶然日本人の教員がいて、柔道部を新設されたので、私も参加し、夜の練習にも参加した。男女混合の練習というのもアメリカらしいと思ったが、男子生徒は腕力が強く、試合では苦労した。レスリング部にも誘われたが、減量が嫌だったので、断った。

留学直前に、M.L.キングとR.ケネディが相次いで暗殺されたので、父が心配そうに「野蛮な国だな」と言ったのを良く覚えている。これは、米国の大きな側面を表し、それは現在でも変わっていない。日本にいる時もそうだったが、常に批判的な目で観察をしていた。宗教に関心はあっても、信者になるには懐疑的過ぎる。米国の懐の深いところには感心したが、人種差別、貧困、帝国主義的意識等は、非常に気になる点だった。最近出版された林壮一『オバマも救えないアメリカ』(新潮新書、2011)でも、最近の人種差別殺人を報告している。スピーチの授業で、フェアバンク、ラティモア等の碩学の見解を引用して、国連中国代表権の正当性を説いたことがあったが(当時は台湾が代表していた)、後で、「何といわれても、私たちは中国が嫌いなの」という感想を聞かされた。このあたりが、平均的米国人の意識だったのだろう。

最後のバス旅行も面白かった。ミネアポリス地区は南米からの生徒が多く、車内はいつもにぎやかだったが、私はそれには加わらず、聖書を読んでいた。オランダから来た女生徒とは少し話したが、彼女もたわいない話にはうんざりという感じだった。それから、一番意思の疎通があったのは、スイスから来た女生徒だった。非常に感性の鋭い女性で、才能も豊かだった。米国の一般的な公立高校では話の合う生徒はほとんどいないので、私はマルクスからバルトーク、パウルクレーまで話のできる唯一の相手だったかもしれない。

バス旅行でのエピソードを2つ。
一つは、パーティでかなり妖艶な高校生にダンスに相当しつこく誘われたが、最後まで断った。あきらめた彼女は”I never forgive you” と言ったので、私は”God will forgive me”と切り返した。彼女は友人と私を誘えるかどうか賭けをして、負けたというのが真相である。

もう一つはボストンに行った時に、滞在先の娘でカールトン大学に行っている女性から、ケープに行かないかと誘われ、大いに心が動いたが、ハーヴァードを見たかったので、両方は行けないか聞くと、無理だというので、結局ハーヴァードを選んだ。

最後に、ニューヨークについてから、まじめな私は夜は外出せず、昼間も一人で出かけて、当時国連でウ・タント補佐をしていた明石康氏を訪ねた。公衆電話で約束を取り、受付で入構証をもらって、40階直通のエレベーターに一人だけで乗っていった。明石さんは歓迎してくれて、米国での生活等について少し話をした。途中、将来国連で働きたいと言うと、少し間をおいて、「今はまだ決めない方がいいでしょう。色々な可能性があるから」という、とても親切で、的確な助言をいただいた。近いうち、再訪してその時のことを覚えているか聞いてみたい。

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