Welcome to AFS YP15

瓜生知寿子

瓜生知寿子

瓜生知寿子

Clairemont High School
San Diego , California

For a Happy Reunion

入ってみたらガリ勉くんだらけの(ように見えた)高校になじめず、数か月で不登校に。軌道修正のきっかけになったのが、うじうじとベッドに寝転がって読みふけっていた雑誌で目にした「AFS・高校生アメリカ交換留学」の記事でした。その年の応募はもう締め切られていたので、次の年に選考試験を受け、三年生の夏休みにAFS15期生の仲間と共にアメリカに渡りました。

迎えてくれたのは、日本の両親と同い年の夫婦に、ひとつ年上の男の子とひとつ年下の女の子、とてつもなく大きくて真っ白なサモエドという種類の犬が二匹、毛の長い猫一匹、原色の羽根が見事なオウムが一羽という、動物好きのホストファミリー。広いガレージにどかんとベッドがおいてあって、早口で立て板に水のごとくしゃべる、菜箸みたいに細長い男の子=ホストブラザーがそこで寝起きしていたり(そのわけは、ほどなく明らかに。日本から来る高校生=わたしに部屋を明け渡したものの、あてにしていたアルバイト収入が途絶えてアパートの家賃が払えないという窮地に追いこまれ、父が趣味の写真を現像する暗室として使っていたガレージの一角に、期限つきで居候していたのです。数十年後に本人から聞いた話では、「あれは家族全員が想定していた事態」だったそうです)、その菜箸くんがかっこいいAustin Healeyを乗り回していたり、子どもまでがおとうさんを〝Andy〟と名前で呼んでいたり、下見に連れていってもらった高校に、オレンジとりんごの自動販売機があったり、食器洗い機や、スイッチポンで乾燥までしてくれる大きなドラム式洗濯機があたり前のように使われていたりと、アメリカでの生活はびっくりに次ぐびっくりで幕を開けました。

ホストファミリーは絵に描いたような白人家庭でしたが、当時としてはかなりリベラルだったようで、アメリカ人は毎週日曜日に教会に行くと聞いていたのに、教会どころか、キリスト教そのものにも背を向けていました。アメリカにはまだ徴兵制度があったのですが、ホストブラザーは良心的兵役拒否を貫いていました。近所はみな白人で、学校にも黒人は数人。同じ学校区にほとんど黒人ばかりという高校もあって、白人と黒人は別々が暗黙の了解だと感じました。日系人は同じ学校に何人かいて、みな優等生でした。

高校の授業でいちばん苦労したのはSpeechです。とくにImpromptu speechには毎回身がすくみました。どんな「お題」が与えられたのか、何を話したのかはよく覚えていませんが、冷や汗だらだらだったことと、最後のImpromptu speechでクラスメートが熱い拍手を送ってくれたことだけは忘れられません。これはのちに、まちがっていても堂々とものを言って相手を煙に巻く技(?)につながりました。

English class

いちばん実用的だったのは半期のタイピングの授業でした。あのとき習いおぼえたタッチタイピングは、学生時代のアルバイトのみならず、その後ワープロ、パソコンが普及してからも、毎日の仕事や雑務で大いに役立っています。

衝撃的だったのは、男女別々の教室でおこなわれた性教育の授業。とくに、最終日に八ミリカメラの実写映像で見せられた出産の一部始終には、度肝を抜かれました。

タレントショーと呼ばれる学園祭のような催しでは、ステージで日本舞踊を全校生徒に披露しましたが、種を明かせば、着物を自分ひとりで着るのも扇を手に踊るのも、出発前の二か月で習いおぼえた、まったくのつけ焼き刃。思い出しただけで顔から火が出る〝怪挙〟でした。

滞在中、中学二年のときから文通していたペンパルにも会えました。Orange Countyに住む彼女の家族の招待で、San Diego―Los Angelesの往復航空券まで用意してもらい、それはそれは温かいもてなしを受けました。このときもそうでしたが、最後のバストリップで各地のボランティアの家に泊めてもらったときも、アメリカ人が好んで使うhospitalityという言葉の意味をかみしめました。

1968年といえば、日本では原子力空母エンタープライズの寄港阻止闘争や東大紛争が始まった年、アメリカではベトナム戦争への反対活動が広まり、既成の価値観を捨て、自然回帰をうたう〝ヒッピー〟ムーブメントが大きなうねりになった年です。わたしたち高校生もヒッピーの平和のシンボルがついたペンダントを首にさげ、切りっぱなしのジーンズをはいて、戦争に正義などない、本当の敵は戦争そのものではないのか、などと意見をぶつけあいました。その一方で、街にはファンシーな物があふれ、ひとびとは快適な暮らしを求めることに余念がなく、アメリカはどこまでもあこがれの国でした。

カレジの決断 表紙

 
1979年には、ESLの交換教諭として滞在したイリノイ州からの帰路、子ども3人を連れてホストファミリーを再訪。70年代にMomが書いた児童書を2作もらってきました。その後、わたしたち一家がミシガン州に住んでいたときには、MomとAndyが会いに来てくれて、再再会と互いの健康をよろこびあいましたが、ようやく東京に腰をおちつけて4年ほどたったある日、Momから驚きのメールが来ました。乳がんがみつかったというのです。手術後しばらくして送られてきた写真を見たときには、心底焦りました。そして、いつかそのうちに、と思いながらほったらかしにしていた彼女の本のうち一冊の翻訳に、すぐさまとりかかりました。動揺していた上に気が急いていたので、できあがりに不満はありますが、幸いにもその本は偕成社の若い編集者の尽力で98年に出版され、Momを励ます一助になりました。
 90年代に入ってパソコンでメールのやりとりができるようになってからは、新語や理解のむずかしい表現に出くわすと、まずMomにメールで質問し、ついでに雑談もして、アメリカとの距離は一気に縮まりました。曖昧な文章でお助け隊長のMomにも意味がはっきりしないときは、彼女から家族全員にメールが飛んで、見事な連携プレーであっという間に解釈の問題は解決。ありがたいとしか言いようがありません。2005年にMomが他界した後は、ホストブラザーが助っ人を買って出てくれて、ユーモアあふれる講釈で笑わせてくれます。

with Mom and Andy1

リタイヤしたあと移り住んだヘメットで暮らすAndyとも、シアトルに住むホストシスターとも、メールでの交流は続いています。3年ほど前、Andyとメールで昔話に花を咲かせていたとき、「そういえば、よくピカンナッツの入ったチョコレートファッジを作ってくれたね」と書いたら、数週間後、「久しぶりに作ってみたから」と、航空便でファッジが届きました。一切れずつていねいにワックスペーペーで包まれ、平たい紙箱にきっちり詰められて! 甘い甘いファッジを口に入れると、なつかしさがこみあげると同時に、キッチンに立って、少し背をかがめてお鍋をかきまぜているAndyの姿がまぶたにうかびました。彼が、〝こんなこと、子どもたちには言えないんだけれど〟と自嘲気味に前置きして、Momが逝ったあとの寂しさをメールに書き綴ってきたことなども思い出され、いとおしくて胸がしめつけられました。

学生時代に結婚したパートナーが企業に就職して最初の20年は、夫、転勤→わたし、失業、の繰り返しでしたが、行く先々でのすばらしい出会いは、何物にも代え難い財産です。ミシガンではESLの補助教員として、東南アジアや東ヨーロッパからの移民・難民の子どもたちを応援しました。70年代の終わりから、家事と〝ちょぼら〟(ちょこっとボランティア)の合間に、雑誌記事、文芸書、児童書の翻訳をしています。やまのまや、江木真枝のペンネームで若いころに訳したロマンス小説もあわせると、訳書は50冊をこえました。20年ほど前に東京の郊外、小平市に根をおろしてからは、近くの大学で英語をおしえるパートタイマーも兼ねています。どちらも楽しくてやめられません。ちなみに、専攻科目だったウルドゥー語は、ついぞ物になりませんでした。

思えば、大好きな日本語と英語を使う仕事にかかわってこられたのも、異質なものを迷わず受け容れられるのも、AFSの一年があったからこそ。おとなと子どものはざまで揺れていたあの時期に、豊かで多様な国のひとびとの、寛容で柔軟な心に触れたことが、その後の自分の生き方につながっていると、身にしみて感じます。

これまでは、できるときに、できるひとが、できるだけのことをすればいいという姿勢で〝ちょぼら〟を心がけてきましたが、気がつけばもう人生の折り返し点を過ぎています。あとどれくらい持ち時間があるのかはわかりませんが、ここらで〝大ぼら〟に乗り出さないと、悔いが残りそうです。何をするかは、ただいま模索中。もちろん、今も世界中に高校生を送り出し、世界中の高校生を迎え入れているAFSの活動も選択肢のひとつです。
 
Bravo AFS!!!

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