Welcome to AFS YP15

佐分利明子

佐分利明子

佐分利明子

Elmer L.Meyers High School
Wilkes-Barre, Pennsylvania

「AFSの思い出」

思い出とはなんだろう。次から次へ生まれ出る「この一瞬」は、流れる星のように私たちから遠ざかり、遠い過去へと追いやられてゆく。容赦のない時の流れの中で、思い出は記憶の襞にまぎれこみ、恐ろしい程の速さで堆積してゆく新しい過去に埋もれ、発掘されることもないまま忘れ去られてゆく。
偶然、パソコン上にAFS15期生の文集を見つけたときの小さな驚き、心の震え。みるみるうちに懐かしさが濁流のように私を襲ってきた。AFS,「えー・えふ・えす」と声に出してみる。なんと懐かしい響き!読み進むうちに、私の心の中に44年前のあの心臓の高鳴りを伴う興奮が蘇ってきた。それは同時に胸が痛くなるほどのせつなさでもあった。あの情熱、あの一途さ、あの純粋さ。振り返ることもせずに走り抜けるようにして生きてきたこの何十年。あの一年は心のずっと奥にしまわれたまま、時折、古ぼけた写真のような情景や断片的な映像が、頭の中に浮かび上がり通りすぎていっただけで、その記憶を綿密に辿ろうとしたことはなかった。この文集のサイトを見つけるまでは。。。

始まり
英語が好き!アメリカにいきたい!それだけの思いで受けた試験。
合格を知らされた日は、さわやかな秋の日だった。その夜、二階の自室の開け放った窓から、私はひとりで夜空を眺めた。清澄な十月の夜気を吸い込みながら、私は完璧な幸福感に包まれていた。今でもあの時と同じようなさわやかな秋の夜になると、幸せな気持ちが私の体を包んでくれる。
年が明け季節が変わり、オリエンテ―ションが始まり、いよいよAFS15期生としての活動が始まった。英語が好き、ただそれだけだった私は、全国から集まった高校生たちが英語の達人であるだけでなく、政治問題、社会問題、核問題にも興味を示し、堂々と自分の意見を述べることができるのを目のあたりにして、つまりAFS生とは全国から集まった優等生の集団であることを知り、恐れをなした。大変なことになったと思った。東京の女子校から参加した私は、均質化された空間にふわふわと浮かんでいるような生活をしていたのかも知れない。とはいうものの、七月の出発がだんだん近づいてくるにつれて、私の興奮と期待感はピークに達していった。

アメリカへ
アメリカでの私の滞在先はペンシルヴァ二ア州のウイルクス・バール。2006年に200年祭を迎えた古い町、ゆったりと流れるサスコハンナ川沿いにある緑に囲まれた美しい町であった。最初のホスト・ファミリーは父、母、そして双子の姉妹。自室で目覚めた初めての朝、窓の外では名の知らぬ鳥がしきりにさえずっていた。カーテンを通して朝日がさんさんと入ってくる。隣家の庭からだろうか、「アダム!アダム!」と呼ぶ声が聞こえた。ここはどこだろう。。。あ、そうだ、私はアメリカにいるのだ。今日からアメリカの生活が始まるのだ。今、何時だろう。。。疲れていたのだろうか、ぐっすりと眠ったあとの爽快感がわたしを包んでいた。こうして、アメリカでの生活は銅鑼が鳴る音ではなく、小鳥のさえずりとともに始まったような気がする。
双子の姉妹のうち姉のほうは社交的で人なつっこく、彼女と私はすぐ意気投合して仲よくなった。早速、服を交換して着てみたり、お互いのベッドの上で話しこんだり、大笑いをしたり。。。しかしトラブルがまっていた。双子の妹の方は、ほとんど自分からは口をきかず、うちにこもったような性格。私が話しかけると、イエスまたはノ―くらいしか答えがかえってこない。突然出現した同い年の高校生が姉を取ってしまったと思ったのかもしれないが、双子という特殊な姉妹関係や心理的葛藤を当時の私が理解するはずもなく、ましてや外交的手段を講じて友好関係を保っていくような能力を私はもっていなかった。ある種の違和感と不安感をもちつつ暮らしていたような気がする。そうこうしているうちに次のトラブルが発生した。ホスト・マザーが体調を壊したのだ。最終的にガンだとわかり入院手術をすることが決まった。私が通っていたマイヤーズ高校のAFS生担当の先生が心配して、ひとまず彼女の家に移るよう申し出てくださり、私はサスコハンナ川に近い彼女の家に引っ越した。
(この件に関して、当時のAFS日本協会のスタッフのみなさまにたいへんご心配をおかけし、お世話になった。今、あらためてお詫びと感謝の言葉を申し上げたいと思う。)結局、私にとって、この家が私のアメリカの家となってしまったのだ。
当初は新しいホスト・ファミリーに移ることになっていたのだが、結局それは起こらなかった。正式に話をした記憶がないが、気がつけば私も先生ご夫妻も、こうなることが当然だったように、そのことに関してはとくに話す必要などないように、自然な気持ちで日々を送るようになっていた。父も母も日本から来た女の子が珍しかったのだろうか。二人だけの生活が寂しかったのかも知れない。私も、まったく疑問を感じず、すんなりこの家の娘になっていった。母のミリアムはハスキーな大声で話す豪快な雰囲気の女性。いつもはっきりと意見を述べるのは教師という職業柄だろうか。でも、内面は繊細で限りなくやさしいひとだった。高校でフランス語を教え、パリが大好き、美しいものが大好きだった。父はアイク・シミット。町で洋品と雑貨を売る店を経営していた。ふたりの兄のジョーとデイビッドは東部の大学に通っていたので、普段は家にはおらず、たまに週末や休暇のときに戻ってきた。そしてラッキーという、小さくて真っ黒でころころした犬がいて、この犬を母も父もたいへん可愛がっていた。(私が日本にもどって数年後、母が「ラッキーが死んだ!」と言って泣きながら電話をくれた。)父のアイクは温厚そのもの、やさしくて紳士的で、毎日必ず決まった時間に家を出て、決まった時間に帰宅した。夕方、犬のラッキーがそわそわしだすと、まもなく父のクライスラーが車庫に入る音がする。母がそれまで採点などをしながら座っていたソファの上から「よいしょ!」という感じで腰をあげ、キッチンに行きオーブンにスイッチを入れた。父はいつも私にジョークやだじゃれを教えてくれた。また、ストッキングやタオルをちょくちょくお店から持って帰ってきて私にくださった。
家から2プロック北にゆくと、サスコハンナ川がゆったりと流れていた。夜、家族で食事に出かけたり、親戚の家に行った帰り、リバーサイト・ドライブを車で通りかかる。対岸の灯がキラキラと輝いていたのだろうか。私は突然物悲しい思いに襲われた。すべてから忘れられ、たったひとりこの町に置き去りにされているような寂寥感。車には父と母がいて楽しそうに話しているのに。。。単なるホームシックだったか。それとも大人になってから経験するであろう人の世の哀しみ、せつなさを初めて味わったのだろうか。町の灯りはいつも哀しいものである。このサスコハンナ川が1972年のアグネス台風で氾濫し、マレリー・プレスの我が家は一階が浸水、母の誕生日に日本から送った御所車の置物が水につかったまま、ぷかんぷかんと流れていったと、後日母が悲しそうに報告してくるなどとは、当時は想像だにしなかった。この洪水を機に、その後何度も洪水に見舞われたウイルクス・バールは洪水の街として知られるようになっていった。

学校生活
高校はエルマー・エル・マイヤーズ高校。中学校と合わせると、かなり大きい学校だった。校長先生のミスター・デイビスは大柄で赤ら顔、ユーモアたっぶりの方で、私を見かけると必ず話しかけてくれて冗談を言って笑わせてくれた。女子のジーパンは禁止されていたので、通学はワンピースかスカート、またはキュロットだった。キュロットは当時流行り出していて、多くの女子が好んで着ていた。ホームルームで私の後ろに座っていたナンシー・グレーバーはシンプリシティーの型紙を使って自分で服をつくるそうで、毎週新しいワンピースを着て登場した。それまで紺と黒づくめで高校生活を送ってきた私には、彼女がたいへん華やかで耀いているように見えた。事実、ナンシ―は美しい少女で、ジュニア・プロムやホーム・カミングの女王に選ばれていた。近くに住んでいたシンディーが毎日迎えにきてくれて、いっしょに歩いて通学した。二十分くらいの道のりだっただろうか。雪の朝、ドアを開けるとシンディーは頬を真っ赤にして、太編みの毛糸の帽子を目深にかぶり、笑いながら真白な息をはいて待っていた。私は母が買ってくれたフードつきのコートを着て、二人で雪の道をころがりそうになりながら歩いていった。ウイルクス・バールはワイオミング・バレーと呼ばれる盆地にあって冬には厳しい寒さが訪れるのだった。
授業が終わると、次の授業を受けるために重い教科書を何冊もかかえて移動する。廊下は生徒たちであふれんばかり。時折り、母に廊下で出くわす。彼女も本を何冊も抱えて移動中。立ち止まって、ふたりで二言三言交わす。どお、大丈夫?うん、大丈夫。そして、また自分たちの教室にむかう。今、ふと思う。母はほんとうにやさしい人だった。私は当時、そのやさしさを理解していただろうか、感謝していただろうか。今、こうして思い出にひたる時、これまでまったく記憶になかったような、さまざまな出来事が浮かんでくる。そしてあのときの母をようやく理解できる気がするのだ。
授業はどうだったのだろう。ミスター・チェンバレンの19世紀イギリス文学。甲高い声で早口で滔々と話し続ける。少しでも理解するためには気をぬくことなく集中し続けなければならない。終わったあとはぐったり疲れた。そして宿題のリーディングの量に絶望的になった。
西洋史のミスター・ヘンダ―ソン。ちょっと苦みばしった風貌でリ―ゼント風の髪型の先生が、教科書はいっさい見ずに両手を後ろに組んで教室をぐるぐると歩きながら宗教や戦争の話をするのだからわたしは驚いた。こんな歴史の授業を受けたことはなかったからだ。
ミス・クレメックは私の担任でもあり数学の先生でもあった。「アドバンスト・マス」と呼ばれる上級クラスに入ったのだが、ここは私のオアシスだった。ミス・クレメックはやさしかったし、数学は東京の学校よりもずっと遅れたことをやっていたので、ミスター・チェンバレンのクラスで完全消滅した自信を再び取り戻す時間にもなった。ミス・クレメックは色白の顔に両端がツンととがったメガネをかけ、栗色の髪をいつもきれいな外巻きにセットして、モノトーンの色合いのスーツをお洒落に着こなしていた。ヒステリー気味なところがあり(無理もない!)、悪ガキの男子達がホームルームで騒いでいると、とたんに爆発、生徒の姓を呼び捨てにして、「アンダーソン!デッカー!、黙って座れェ!」と怒鳴り出す。ちょっと恐いけれど面白くて、私は吹き出しそうになりながら眺めていた。このミス・クレメックに私はとても可愛がっていただいた。
西洋史にしてもイギリス文学にしても、あんなにたくさんの宿題、つまり読む量を勉強家でもない私はどうやって処理していたのだろうか。結果ではない、過程だ。参加することに意義があるのだ、などとこじつけて開き直っていたのだろうか。今でもサッカレーとかトマス・ハーディーの名を聞くと一瞬緊張するのは、やはりPTSDのせいだろうかと思ったりする。
クリエイティブ・ライティングを取ったのは書くことが好きだったから。でも書くだけでなく、これにも分厚い教科書があって、それも読まねばならず、たくさんの宿題が出た。担当のミスター・イライヤスは私の書く文章にさぞかし辟易なさったことだろう。この方にも可愛がっていただいた。小さなお嬢ちゃまがいらしたので、最期の授業が終わったとき千羽鶴(千羽はなかったが)のモビールを作って、これをどうぞ、といって差し上げたら、なんとミスター・イライヤスの眼がたちまちうるんできた。びっくりした私も鼻の奥が、つーんとしてしまい、あっという間に泣きだしてしまった。劣等生の私の面倒を、よく見てくださり、その上、涙まで浮かべてくださったミスター・イライヤス。今、お顔がはっきりと浮かんでくる。
ある日、母が、好きな人ができたかと聞いてきた。ジョー・マキューンが好きと答えると、母は黙っていた。数週間したころだろうか、ジョー・マキューンが家の裏のデッキにペンキを塗るアルバイトにやってきた。私はたいへん緊張したが、言われたとおり彼におやつをあげて中に入ってしまった。もしかしたら母の差し金だったのかも知れない。
シニア・プロムには、そのジョー・マキューンからは誘われず、彼はプリシラ・ジョーンズを誘った。私は気にもとめていなかったビル・デッカーから誘われ、母は喜んでいっしょに町にゆき、ロングドレスを買ってくれた。淡いピンク色でタフタ地のようなドレスを手にいれ、私は有頂天になったが、お相手には少々がっかりしていた。シニア・プロムの当日、ビル・デッカーはタキシードに身をつつみ、普段とは異なる真面目くさった顔つきで私の家に迎えにきた。少々太目ではあったが、その夜の彼はとても魅力的に見えた。あの夜、私は彼にやさしくしてあげたのだろうか。せっかく誘ってくれたことを感謝したのだろうか。若さはなんと傲慢だろう。
卒業式は下級生達が大合唱するブリテンの「威風堂々」に合わせて卒業生が行進するのがマイヤーズ校の伝統。その日が近づいてくると母が家でも、「ラ―ラ、ラララ、ラ―ラ―、マッザ―・オブ・ザ・フリー!」とサワリの部分を繰り返し歌うようになり、私もどんなふうになるのか興味しんしんでいた。卒業生代表のひとりとしてスピーチをさせていただいたのだが、緊張してしまい声が震える。あとで母から「泣いているみたいだったから、後ろの人が鼻をすすっていた」と報告を受け、ちょっと申し訳ない気持ちになったことを覚えている。
「ニューヨークに会いにいくからね!」という父母に別れを告げ私たちはいよいよバス旅行に出発した。東部だったから大陸横断ではなく、中部までいったあとUターンする行程だ。再び思い出が蘇ってくる。イリノイ州の農家。その家の中学生の少女が別れ際に「あなたが好き!」と言って私を抱きしめたこと。別の農家ではお父さんが私に自転車に乗るのを教えてくれたこと。お父さんが私の自転車を後ろで支えてくれて、私はおそるおそるこぎ出していった。ところが、運動神経のにぶい私がなんと乗れてしまったのだ!汗びっしょりのお父さんも大喜びしてくれる。私はアメリカで自転車に乗れるようになったのだ!
オハイオ州の家庭ではプール・パーティーを開いてくれた。チャ―リ―という名の親類の若い男性がやって来た。彼は車椅子に乗っていた。下半身が麻痺していたのだ。それなのにチャ―リ―は、平気でそばにいる人達に頼んでプ―ルに放り込んでもらったり、滑り台をすべって着水したり、子供たちと水を掛け合って遊んだり、他の子供や大人たちとまったく同様にパーティーを楽しんでいた。障害があっても、他の人たちといっしょに生活を楽しむことができる人、それを当然として受け止めている回りの人々。私にとって、決して忘れることのできない光景のひとつとなった。
どこの家だったろうか、ピクニックを開いてくれた。お父さんがお母さんにささやいた。「今日は特別だから大きいバケットにしようね」そう、ケンタッキーフライドチキン。アメリカに行って初めて食べたあのフライドチキンの大きなバケット。そしてコ―ンやホットドッグやコ―ラやベビー・マシュマロいりの甘いポテトサラダ。。。ああ、あの人たちは今どうしているだろう。出会った人々の、なんとやさしく誠実だったことか。60年代を生きていた素朴で善良なアメリカ人たち。。。

帰国後
日本に戻った私は、英語の授業であれほど苦労したにも関わらず
アメリカに戻って勉強したいと親を説得した。根負けした両親は当時、私の日本の母の従姉が教えていたニューヨーク州のカレッジにいくように勧めたが、問い合わせているうちに、その従姉の意見もあり全寮制で安全なニュー・イングランドのジュニア・カレッジならということになって、聖心の英語専攻科を卒業したあと再びアメリカに渡った。ニュー・ハンプシャ―州にある女子のジュニア・カレッジだった。ここはその後、共学の四大になってしまった。現在、アメリカには女子大や女子短大は数えるほどしかないと思う。共学になってしまったことで雰囲気は完全に変わってしまったことだろう。これも時代の流れだ。ミリアムとアイクの両親は非常に喜んでくれて、どうしているか、週末に帰ってこないかと、電話をしてきてくれたが、勉強が忙しいのと、週末は近くのダートマス大学のダンスパーティーに行ったり、友達のボストンの家についていって泊まったりして、なかなか戻らなかった。一度、帰ったとき、高校時代の友人ふたりが早速会いにきてくれた。ひとりは、まるまるとした男の子を抱いていた。今、つくづく思う。あのとき、もっと帰っていれば、母も父もどんなに喜んだであろう。若さとは愚かさと自己中心そのものでもある。そんな私だったが、母も父も卒業式にはもちろんかけつけてくれて、そのあとウイルクス・バールの家に戻り、しばらく滞在した。

その後
卒業後は日本に戻り、外資系の会社で仕事をした後、研究職にあった夫と結婚、ロンドンで暮らした後、オーストラリアに行った。豪州!あくまでも広く、あくまでも明るく豊かな国。アメリカとも英国ともまったく異なった風土と独特の文化。時間がゆっくりと流れているようなおおらかさが私の性格にあっていたのか、それほどの苦労もなく新しいこの土地に私は順応していった。こうしてアメリカは私からだんだん遠ざかっていった。。。
オーストラリアでは大学で学ぶチャンスがすべての人に平等に与えられている。つまり年齢に関係なく入学できるし、パートタイムで勉強する制度も確立されている。キャンパスにはスタッフと学生用の託児所の設備が整っていた。夫の勧めもあり、キャンベラのオーストラリア国立大学に入学した。せっかく勉強する機会が与えられたのだから国際関係とか政治を勉強すればよいものを、語学が好きな私は、今度はフランス語を専攻することにした。ヴィクトール・ユーゴーは私の大好きな作家だったし、小学校のときに「ああ無情」を読んで以来、何回も読んだその話を、いつか原文で読んでみるのが夢だったのだ。英語が好きだからアメリカにいく!高校生のときと同じ理由で今度も衝動的に専攻を決めて突っ走った。いくつになっても性格は変わらない。夫の転勤にともない、途中からメルボルン大学に移った。娘を託児所に預け、図書館の薄暗い隅の決まった席に陣取り、ひいひい言いながら、ゾラやバルッザックを読んで(読めずに)奇妙な充実感を味わっていたのは、今ふうに言えばオタクッぽかったのかも知れない。学生食堂で昼食をとっていると、保母さんに連れられた託児所の子供たちがぞろぞろと前を通りすぎていく。昼の散歩の時間なのだ。娘も親指をくわえて、煮しめたようなタオルをもう一方の手からひきずるようして、一団といっしょに通り過ぎていく。ここで娘に見つかると里心が出てたいへんな事になる!私はとっさに柱の影に身をかくす。帰りは託児所から娘を引き取って、バギーに乗せトラムに乗って郊外の我が家にもどる。娘が生まれたときに1年間休学したが、やっと単位が揃い卒業できることになった。もっと勉強を続けようと思っていた矢先、夫が日本の大学に勤務することになり、日本に引き揚げてきた。娘は日本、オーストラリア、オランダで教育を受け音楽の道を進んだ。現在はヴァイオリニストとしてベルギーを拠点に演奏活動に従事している。私はパートタイムで英語を教え、折り折りべルギーと日本の間を往復する生活をしている。

44年後
あの一年を冷静な気持ちで振り返るには、これだけの年月が必要だったのだろうか。今、やっと客観的に当時の私自身を見つめることが出来る気がする。また当時出会った人々、とくに私を受け入れ、きめの細かい世話をしてくれ、ほんとうの娘のように愛してくれた母と父のことを思うとき、年齢を重ねるにつれて、あの時の彼らの気持ちや行動を、より深く理解できる気もする。あのとき母はあんな気持ちだったのだ、父はあんなことを考えていたのだ。なぜ理解できなかったのだろう。若さゆえの無知、思慮のなさだろうか。
思い出は限りなく続く。それは限りないせつなさも伴う。
今、私の前には百余名の高校生たちがいる。まだあどけなさの残った顔には、不安をかき消してしまうほどの情熱と期待感がみなぎっており、みな、はちきれそうに震えながら船出をまっている。一途さと純粋さでいっぱいの彼ら。そしてアメリカ中に散らばっていく彼らがいる。緊張しながら、笑いながら、ホストファミリーに迎えられている彼らがいる。山積みになった宿題と深夜まで格闘している彼らがいる。ホームシックでちょっとしんみりしたり、辛辣な質問にたじろいだり、ダンスパーティーで胸を躍らせ、初めてのピザやマクドナルドを嬉しそうにほおばっている彼らがいる。正装して胸をときめかせシニア・プロムに向かう彼らがいる。卒業式で大泣きしている彼らがいる。みな精一杯の努力と純粋さで、あらゆるものを吸収しようとしている。そして、アメリカ中にグレイハウンドのバスに乗った彼らがいる。様々な国の若者たちと話し、笑い、心を寄せあい、胸を躍らせ首都ワシントンを目指している彼らがいる。携帯電話もメールもスカイプもなく、国際電話すらままならない、日本が果てしなく遠かった時代。そんな時代にアメリカに渡った彼らは文字通りひとりぼっちだった。頼れるものは自分自身だけだった。そんな彼らを私は今、心から愛おしく思う。心から声援を送りたいと思う。あなたたちは青春のひとこまを、最も充実させ、最も努力し、最も純粋に生きた人たち、そして最も幸運な人たち。あの時のあれほどまでの情熱があれば、私たちはその先堂々と生きることが許される。あの情熱!あの一途さ!しばらく忘れていた感覚。
今の私はどうだろう。まだ、やりたいことがたくさんある。できるだろうか。これを書いているのは2012年の1月。日本列島は記録的な寒波にすっぽりと包まれている。居間の隅で先ほどまで元気に燃えていたストーブの火は、だんだん勢いを失いつつある。でも、そこにもういちど薪をくべてやれば、火はふたたびごおごおと音をたてて燃え始めるだろう。私に残された時間、もしかしたら再びなにかが出来るだろうか。。。

 44年間は、あっという間だったような気がする。ひた走りにここまで来たような気がする。今回の文集との出会いがきっかけで、44年前の思い出と、あらためて向き合った。掌に載せ、話しかけ、愛しんでいるうちに、それは血が通いだし、生き返り現実となっていった。思い出は過去のものではなかった。死んでなどいなかった。引き出しから出され、ほこりが取り払われ、命が与えられ、過去の人々はみんな今生きている人間として蘇っていった。今の私になんと大きな力とエネルギーを与えてくれることだろう。

最もたいせつなことをまだ述べていなかった。私たちの夢をかなえてくれ、私たちを太平洋の向こうまで送り出してくださった方々に、今、改めて感謝したい。当時のAFS本部、日本協会、日本とアメリカの私たちの家族、友人、バス旅行でお世話になった家族の方々、すべての人々に半世紀近くを経た今、あらためて心からの感謝を述べたい。現代のビジネスがらみの留学状況とはことなり、私たちはすべての人々の好意によって支えられていた。あの時存在したのは、好意と情熱だけだった。その中には天国に行ってしまった方々もいらっしゃる。まだまだお元気で当時を思い出してくださる方もいらっしゃるだろう。私たちにあのような素晴らしい経験を授けてくださった方々に、今こそ心よりお礼を申し上げたい。あの一年がなければ、今の私はいなかったと確信する。そして、最もたいせつなこと、それは、私は心から愛する人々をアメリカという国にもつことができたことである。

最後に、このAFS15期生文集のサイトを立ち上げ、私が44年前の自分をじっくりと見つめなおす機会を与えてくださった15期生の編集委員の方々に感謝を申し上げたいと思う。あの一年を、あらためて真剣に考える機会を与えてくださった。本当にありがとうございます。

居間の薪ストーブの火は残り火だけになってしまった。さあ、薪を足してやろう。そうすれば火はふたたび赤々と燃えだすことだろう。遠い過去のいっとき、最も多感な青春時代に経験した濃密な出来事。それに、もう一度光をあててやることによって、私のこれからの人生が少し変わるかもしれない。時には消えかかりそうな情熱を、もう一度生き返らせ、燃え立たせてやることが出来るかもしれない。ストーブに燃える火のように。今、そんなことを真剣に考えている。
(了)

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional