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飯野正光

飯野正光

飯野正光

Portola, California
Portola High School 

ショックから理解へ

 一通のメールに添付された集合写真。42年前の7月初旬、福島県猪苗代湖近くの国立磐梯青年の家で撮影された写真が、高校時代の体験(単なる体験と言う言葉では尽くしきれない出来事だった)を、思い起こさせてくれた。まずは写真のどこに、自分がいるか探してみる。一巡目のスキャン。どうもよく分からない。いないはずはないが?二巡目のスキャン。これかなと思い、消去法でこれしかないと納得する。最後列のいかにもオタクっぽい高校生。アメリカでの一年間は、このオタク高校生に強烈な影響を与えることになった。

AFSとの出会い
 高校は山形県立の進学校。学校として特に海外留学に力を入れていたとは思わないし、自分にもとりたてて留学に強い気持ちがあったわけでもない。学年主任の先生にAFSの試験を受けてみないかと勧められたのがきっかけだった。アメリカに1年間?降って湧いた話に躊躇する気持ちもあったが、なんだか面白そうだと思った。父は、最初消極的だったと思う。大学卒業後の大事な時期に太平洋戦争の軍医として召集され、希望していた大学での研究の機会を逸していた父は、長男の私には早く大学に入って欲しかったのかもしれない。意外にも祖母が積極的な意見をだし、父が信頼していた従兄弟からも挑戦してみたら良いという助言があり、父も納得した。自分でもよくわからないが幸運にも試験に合格して、7月には先の集合写真の仲間と「昭和43年度AFS奨学生に対するオリエンテーション」を受けていた。

カルチャーショック
 当時、外国に一年間も行くのは相当の覚悟が必要な時代だったと思う。大勢の人に見送られて山形を発ち、羽田を発った。サンフランシスコ空港から、バスでハイウエイというものを初めて走り、スタンフォードに入った。まるでおとぎの国のような、きれいな色とりどりの家々を目にしたとき、アメリカに来たんだと実感した。スタンフォード大でのオリエンテーションを経て、飛行機でReno, Nevadaに飛び、ホストファミリーに迎えられた。一年過ごすことになるPortola, Californiaは、Renoから車で1時間ぐらいだったと思う。Renoとの縁は深く、それから家族で行く毎週末の買い物は、Renoの広大な敷地のショッピングセンターだった。
 Portolaについたその日、スクールダンスがあるから行こうとホストファミリーにつれられて出かけた。Cream, Steppenwolf, Procol Harumなどの曲に合わせて踊るアメリカの高校生の男女を間近でみても何もすることができず、まずはカルチャーショックの洗礼を受けた。
 ホストファミリーは、アイルランド系のEngel家。AlとJaque夫妻にJack(大学生で自立して家を離れていた)、一歳下のJeffと、14歳になってやっとお化粧が許されたJonaという家族構成。Alは電力会社に勤めていて、それほど多弁ということではなく、家の中の実権は表面上Jaqueが握っているように見えた。Jaqueは、ことあるごとに僕を励ましてくれた。兄妹喧嘩は時折あったが、家族は仲が良かった。あるとき、テレビを見ていたAlが眼鏡をかけたままソファで眠ってしまったのを見て、Jeffが絵の具で眼鏡に目玉を描いた。Jonaと僕は、笑いをこらえるのに必死だ。暫くして目を覚ますと、Alは特に何も言わず平然と絵の具を拭き取っていた。まるで友達のような親子付き合いは、僕には考えられなかったが、なるほどそういう親子関係もあるんだと納得した。

The Eagles
Engel家の人々。仲よく手をつなぐAlとJaque。次男のJeff。浴衣を着ているJona。
高校教育
 Portolaは人口2,000人ほどの小さな町で、Portola Junior-Senior High Schoolは、Junior High School部分が2学年、Senior High School部分が4学年という構成になっていた。僕が入った最上級のSenior Classの生徒は総勢でも40人。生徒のほとんどがCaucasianの小さな高校である。授業のEnglishやAmerican Governmentなどは、読む量も多く苦労したが、何とかこなした。そのころ盛んだったHippieについて調べて、レポートを書いたりした。数学では、Advanced Mathのクラスをとった。California州の新聞社が開催した数学コンテストに出てみることになり、2回の予選を通過して13人のfinalistsの一人としてSacramentoで開催された決勝に参加した。「2の平方根が無理数であることを示せ。」というような、受験数学とはちょっと違う傾向の問題が出た。そういう対策を全くしていなかったので、さすがに良くはできなかったが、πをモチーフにしたバッジと50ドルのアメリカ国債をもらった。
 AFS studentsを高校間で交換するプログラムで、サンフランシスコの郊外のRafayetteに1週間ほど滞在した事がある。そこの高校は生徒数が2,000人ぐらいで、Portolaの全人口ほどあった。Advanced Mathのクラスを覗いた時、超越関数の積分をやっていたのを覚えている。日本では、大学レベルの内容かも知れない。アメリカの高校教育の幅広さを実感した。
 理科ではChemistryをとった。易しいと言えば易しいのだが、教科書では原子の電子軌道モデルから化学反応の原理的な基本について説いていて、本質を理解させようとする工夫がされていて、大変面白かった。一方、日本の高校の化学は、化学反応式を覚えたり、生成される沈殿の色を覚えたりと、理解というよりどちらかというと暗記教科のようだった。アメリカでは、化学の本質を教えようとしているのに対して、日本では、表面的な現象を教えようとしているように感じた。

圧倒的なアメリカの国力
 1ドル360円の固定相場で、日米の国力は比較にならなかった。PortolaはThe Golden StateのCalifornia州のなかにはあるが、Los Angelesなどに代表される暖かい気候とは縁がなく、Sierra Nevada山脈の中にある。8月でも息が白くなる日があり、9月になるともう寒さが忍び寄ってきて、冬には1メートルの積雪があった。しかし、家の中は完全に電気による暖房で寒さを感じない。さすがに外に出る時は分厚いジャケット等を着込むことになるが、高校の建物内も全館が暖房され、Tシャツ1枚の生徒もいるという有様である。教室に1個の亜炭ストーブしかなく、寒さを堪えて授業を受けていた山形とは大違いだった。PE(体育)の後はシャワーを浴びることがルールになっていて、熱いシャワーをかぶった後は、山積みのバスタオルを自由に使えた。これも県立高校では考えられなかった。当時、車はダットサンなど日本製品がかなりアメリカにも入り始めていたと思う。しかし、今とは違って日本製品はcheapだといわれていた時代だ。この単語に込められている、安っぽい(値段が安いだけでなく品質が落ちる)という語感に悔しい思いをさせられたのを思い出す。
 アメリカでは何でも大きかったが、アメリカの新聞の分厚い事にも驚いた。Host familyは、The Sacramento Beeという新聞を取っていた。SacramentoはCaliforniaの州都であることを遅ればせながら知った。分厚いのであるが、どうでも良いようなことにもページが使われている。例えば、誰かの娘さんが結婚したなどという記事が、花嫁の大きな写真とともに掲載されていたりする。世界に関する記事も少ない。それこそ日本に関する記事はたまにしか見なかった。地方紙もいいが、なぜ全国紙を取らないのかと思ったが、アメリカには日本で言うような全国紙がないということを後で知った。ベトナムで戦争をしていた頃ではあるが、The Sacramento Beeに当時のアメリカ人の世界観の一面が示されていたような気がする。

英語を話すということ
 毎日、日記というか忘備録をつけていた。40年経って読み返してみると、日々起こることに、驚き、喜び、腹を立て、悩み、考え込んでいた様子が分かる。今になると気恥ずかしいぐらい青臭いが、アメリカの生活を必死で生きようとしていたようだ。最初は日本語で書いていたが、12月に入ると英語になっていた。週末の宿題で何十ページも読んでレポートを提出するという課題をこなし、全ての事象が英語で起こるという環境に身を置くうちに、自然に”English comes first”という状態になったのだろう。
 英語を身につけるには、英語環境に身を置くのが一番ということに大きな異論はないだろうと思う。これには、「聞き話す」という事を否が応でも要求される。しかしそれだけでなく、「読み書く」事も必須だと思う。新聞、小説、教科書、論文、何にしろ、読むことにより、新たな語彙や言い回しを増やすことができる。書くことにより、どう表現すればよいかが分かるし、何より、書く対象について深く理解することになる。大学院修了後の事なのでだいぶ後の話になるが、何回も書き直して英文の学位論文を完成させた後、英国に留学した。初対面の英国人と、自分の学位論文に関係する研究ついては何の問題もなく会話が弾んだ。そのうち、話題が別の事に転じて、日本や英国の歴史、政治、経済などの話になると、とたんに話している事が分からなくなるし、なんと説明したら良いか分からなくなる。当然である。恥ずべき事であるが、そういう問題について、真剣に英語で読み書きする機会がなかったからである。英語の「読み書き」だけができても「聞き話す」事ができなければ十分とは言えないのは当然だ。しかし、「読み書く」ことの重要性も忘れてならないと思う。

Be sociable!
 子供の頃は工作が好きで、乗ってくると、トイレや食事の時間を惜しん熱中していたように思う。というわけで、友達と遊ぶよりは、自分の世界に浸る方を好んでいたようだ。高校では、友達付き合いができないと言うわけではないが、得意ではなかったと思う。冒頭の集合写真の表情にも何となくそんな傾向が読み取れる。そんな言わばオタク高校生が、突然、社交的なアメリカ人の中に放り込まれたのである。
 僕をどう呼ぶかが最初の問題だったようだ。4音節のMASAMITSUは発音しにくいのだろう。ホストファーザーのAlが、先頭のMAは活かして後は省略してXとし、MAXではどうかと提案した。かくして、1年間Maxと呼ばれることになった。(ただし、ホストブラザーのJeffは、帰る頃までにはきれいにマサミツと発音できるようになっていた。今は、全音節で呼んでもらおうと努力しているが、外国人にはなかなか難しいようである。)高校が始まって1週間ほどして、クラスメートが僕のためにSenior Dinnerをレストランで開いてくれ、”The class of 69 welcomes you Max.”というバナーで迎えてくれた。自分なりに、Maxとしてアメリカの高校生活に溶け込もうと努力した。課外活動では、バスケットボール部に所属した。日本でクラブに入っていたわけではないので、かろうじて公式戦に短い時間出してもらえたぐらいで、なかなか試合に出られなかったが、総じて良い経験だった。盛装して参加するPromやBallに一緒に行ってくれる女子を、意を決して誘うなどもした。(Promの最後の曲はSunny −Boney M.だった。)様々な体験を通して、人との付き合いに積極的に対応する姿勢を醸成することができたのは幸運だった。
With Dr.Howe
バストリップの最後にAFSのHowe会長と。

おわりに
 アメリカ留学で得た事は多数ある。英語力や人付き合いも重要な項目だ。日本を外から客観的にみることもできた。日米間の様々な違いを体験できた。日本的考え方、アメリカ的考え方というものが厳然としてあるという事もよく分かった。しかし、最も重要なのは、人間の本質的な部分に日米間にそんなに大きな差はないという事を実感できたことではないかと思う。日本は歴史が古く、美しい四季があり、わびさびなどに代表されるよう、繊細な感情をもっている。それに対して、アメリカは歴史が浅く、気候変化は激しく、西部開拓の荒くれに代表されるよう、日本ほど洗練されていないのではないか。といったような、浅薄で紋切り型の理解をしていたのだが、アメリカ人も、日本人以上に繊細に気を使うことがあることがよく分かった。アメリカ人の視点から見て日本人の態度が粗野に見えることもあるという事もわかった。表面的には大きな違いがあるように見えるが、実は共通する事の方が多く、中身は同じ人間だという事である。これは、協調するにしろ競争するにしろ、アメリカ人とつきあう上で非常に重要な事を学んだと思う。このことは、アメリカ人に限らずあらゆる国民に敷衍できるものだろう。日本にいては決して得る事のできなかったものを与えてくれたAFSの1年間は、私の人生の宝である。

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